アルヒ、ゾウトネタ
男が傍にいないという状況は女のプライドとか、冷静な判断だとか、そういったおよそ理性寄りのものを使用不
可にしてしまう。そうでなければサチエみたいな阿婆擦れ街道まっしぐらの女に借りを作る気にはなるはずがないのだ。洗面所の鏡の前に立って、飢えているよ
うな自分の顔を見るとテンションが下がった。サチエとはもちろん普段から仲良くしているわけではない。ただ、今回に限って言えば私の要求に対して迅速かつ
的確な解答を期待できそうだった。ただそれだけ。顔は十人並みのくせに、唇の横にあるエロティックなホクロ。本人はマリリンモンロー気取りで「モンローっ
て呼んでね」と初対面の時に臆面もなく言ってきた。確かにそのホクロは催淫剤となって男を呼び寄せる。でも、実際はモンローどころか化粧を取ればハエトリ
ソウの類の食虫植物的な顔立ちをしている。まあ、誘い込んで喰いつくすのだから見かけも中身も食虫植物には違いない。ハエトリソウがプラダの赤いワンピー
スに身を包み、卑弥呼のハイヒールを履いている姿を想像する。歯磨きをする手を止めて吹き出してしまった。
原因をたどれば、諸悪の根源は半年前に私に一方的に別れを告げた男だった。私は中一でヴァージンを失って以来、彼氏と呼べるかどうかは別として、男から
別れを告げられたことは一度もなかった。それは一つの誇りだったし、私みたいな専門学校が精一杯の女にとってはアイデンティティを支える数少ない柱のうち
の一本だった。それに、私はサチコのように性欲を解消するためだけに一晩限りの男とセックスするような真似はできなかった。だから中間を取ることにした。
女が精神衛生上健康的に過ごすには中間を選択せざるをえない場合がある。ようするに継続的なセックスパートナーを求めた。赤裸々に言ってしまえば性的欲求
がかなり限界まで達しているのも事実だった。セックスの快感を覚えてからは、半年以上もペニスに触れないということはなかった。私はマスターベーションで
はイケないタイプの女だ。どんなにいやらしいシチュエーションを想像してもオーガズムを得ることは出来なかった。もちろんセックス産業が生み出した文明の
利器にも頼った。それでも、霜焼けの痒みのような淡い疼きのような快感は覚えても、男性器で貫かれた時に発生するような狂乱に似た快感には到底及ばなかっ
た。早熟過ぎたせいかもしれない。マスターベーションのやり方を覚えて試行錯誤している矢先に、部活の先輩にヴァージンを奪われたのだから仕方がないのか
もしれない。「奪われた」と思うのは事後における女の勝手だけれど、その当時は憧れの先輩に「奉げた」自分の操という設定に酔っていたのだから恥ずかしい
限り。ヤリたい盛りの中学三年生の先輩と恋人として安穏と過ごせるはずもなく、先輩はすぐに新しい女性器を探し求めて私から離れていった。これからセック
スパートナーの候補に会いに行くというのに、ふと昔話を思い出すのはなぜだろう。これも女の勝手と解釈して、タオル地のヘアバンドで前髪を後ろに持ってい
く。冷たい水を手ですくうと顔にかけた。水の冷気で肌が少しだけ淡い痛みを覚える。
半年前に私に別れを告げた男は悔しいけれどイイオトコだった。容姿もファッションも私の好みにぴったりだったし、やさしくて包容力があった。それにセッ
クステクニックだって申し分なかった。私は毎晩オーガズムを与えられ、少なくともセックスの最中だけは奴隷だった。格別大きなペニスを有する男ではなかっ
たけれど、女の急所を知り尽くしていた。男はそれでいいのだと、心から思った。それにしても惜しい男と別れてしまったものだ。そう思えば思うほど、性欲が
溢れ出すことに耐え切れずにサチエにすがって男を紹介してもらおうとしている自分が惨めに思えてくる。それでも二時間後には紹介された男とレストランで
テーブルを隔てて向かい合い、当り障りのない会話をする私がいるのだ。サチエの話によれば、相手はセックスに関して最高の男だということだった。サチエ自
身はその男とベッドを一緒にしたことはないらしいのだが、同じヤリマングループの一番可愛い女の子がそのテクニックを体験したらしい。その女の子は今まで
軽いオーガズムは感じたことがあっても、本当にイったことはなかったそうだ。ところがその男とのセックスでは失神してしまったらしい。当然サチコも御相手
仕ろうとモーションをかけたらしいが、一言「好みではない」と言われて断られたという結末。その話を聞いた時、私は笑いをこらえるのに必死だった。なんと
か笑いをこらえながら、もしその男とセックスすることになってもサチエと穴姉妹になる心配がないことに安心した。しかし、それと同時にサチエが直接体験し
たのではないので話が誇張されているようにも思われた。男なんて一緒のベッドで寝てみなければ、ぼんやりとした像が鮮明にはならない。
化粧台の前でアイシャドウの色に悩むことで思考が途切れてしまったが、結局あれこれ考えるよりは男と会ってから品定めするしかないという結論に達した。
男は二十九歳の会社員ということなので服装は出来る限り大人っぽくする必要があるだろう。専門学校生丸出しのファッションはおそらく話にならない。二十分
ほど悩んだが、無難にシンプルでカジュアル過ぎないワンピースを選んだ。色は冬の曇天を吹き飛ばすようなパステルブルー。去年バイトで貯めたお金を全額つ
ぎ込んで買ったミュウミュウのワンピース。やはり服を選んで身に纏うと気分が盛り上がってくる。女の勝手はとても便利。コートは迷わずツモリチサトのコー
トを選び、寒くないようにマフラーもしっかりと巻いた。ちょっとマフラーのバーバリーチェックが子供っぽいように感じたけれど、少しくらいはちょうど良い
アクセントだろう。玄関であまりヒールの高くない靴をしゃがみこんで履いた。目の前には半身鏡があって、今日の私のコーディネートを映し出した。全体とし
て淡い色のコーディネートは私の気分と同じくぼやけて見えた。すぐさまクローゼットの前に戻って着替えたくなった。でも、腕時計はそれが許されないことを
知らせた。諦めるようにため息をついて玄関のドアを開ける。外の風の冷たさがますます気分を滅入らせたが、それで壊れるほどほど弱くもなかった。曇天はそ
のうちに雪を降らせそうだ。クリスマスも近いのだから降ってもおかしくないのだが、気まぐれなのは天気も一緒。売れないポップスの歌詞のようなフレーズを
浮かべながら、アパートの階段を下りると、コートの中にまで冷気が侵入してきた。私は思わず独り言を言った。
「ばーか、これから温めてもらえる保証ないんだからこれ以上冷やすなっての」
何のことはない、馬鹿なのは私。
男と待ち合わせているレストランは市街地からちょっと離れているところにあった。もちろん始めていく場所だったが、評判の店らしくタクシーの運転手に行
き先を告げれば店に着いた。腕時計を見れば予定の時間五分前だった。私も律儀なものだと思いながら店の中に入った。内装はカントリー調をとても上品にした
ような作りで、木がふんだんに使われた作りになっていた。テーブルもイスも自然な形を生かして作られたデザイン。テーブルクロスや店員の服などの布には暖
色が配色され、店全体が温かみのある空間だった。どのテーブルにも客がいて、美味しそうに料理を頬張り、談笑している。なかなか趣味の良い店を選ぶものだ
と感心しながら、入り口のカウンターで予約の確認をする。
「根津さんという名前で予約してあると思うんですが・・・」
根津卓巳というのが男の名前だった。体の特徴などは聞いていなかったので、むやみに男を探して店の中を見回すよりも店員に聞くほうが手っ取り早いだろう。
店員は「どうぞご案内します」と言うと店の奥にある個室へと案内した。個室は予約の客用に三室あるらしく、私が案内された部屋以外も埋まっているところを
見るとかなり繁盛しているようだ。店員がドアを軽くノックすると、「ハーイ」という高めの声が聞こえた。どうやら根津卓巳はもう中で待っているらしかっ
た。「お連れ様がお見えです」と言うと、店員は一度笑顔を見せ戻っていった。私は少しためらいがちにドアを開けた。
部屋の中には二人用のテーブルがあり、窓が一つあり、そして根津卓巳がいた。初対面だから、「初めまして」と言いながらもお互いに容姿をじろじろと見て
しまう。根津卓巳はかなり恰幅のいい男だった。逞しいという感じではなく、ふかふかした大きいクッションのようだ。身長は百七十五センチくらいはありそう
だが、確実に身長に見合わない体重の持ち主だろう。それでも、太っているという表現を使う気になれない。ただ大きい。顔は悪くはなかった。世間一般ではど
うか知らないが、私には充分にセックスの相手が務まる顔だった。さすがに休日なのでスーツは着ていないが、年相応にボルドーのタートルネックの上に上品な
ダークブラウンのカジュアルジャケット、黒いコーデュロイのパンツという格好だった。首回りがきつそうにも見えたが良く似合っていた。
「寒い中迎えにも行かず、すいませんでした。ちょうど車を修理に出していたもので」
根津卓巳は人工的な笑顔で話し始めた。
「武田さん、食前酒はワインで平気ですか?」
淡々と話をするのは会社の営業で身につけたものなのか、すらすらと言葉が出てくる。
「嫌いなものはありません。それにどうぞ下の名前で呼んでください」
「悠子さんで構いませんか?」
あなたのほうがはるかに年上なのだからどうぞ呼び捨てで結構です、と言おうとも思った。しかし、相手の流儀を否定する必要もないので、そのまま言葉を飲んだ。私って結構気が利くじゃない。なんて自画自賛してみる。
前菜が運ばれてくるまで、初めて会った男女が交わすありがちな話をした。趣味や普段の生活についてなど、差し障りはないけれど意味もない会話。ここまで
は二時間前の予想通り。見れば見るほど不思議なタイプの男だ。物腰は柔らかくのんびりとしているが、無音でオスの匂いが発生しているような感じがした。そ
れに、何かに似ているのだが、なかなか思い浮かばなかった。意味のない会話は続き、前菜が運ばれ、スープが運ばれ、ついにはメインも目の前に並んだ。メイ
ンは鹿肉のステーキだ。根津卓巳がナイフで切り分けた鹿肉を口へ運ぶ仕草は、「食べる」というよりも「食む」というのに相応しかった。やっと何に似ている
かが分かった。小学生の頃、遠足で行った動物園に一頭だけいた「象」だ。顔を良く見ると産毛が生えている。ますます象に見えてきて少し笑ってしまった。
「悠子さん、僕の顔に何かついていますか?」
不思議そうに私に尋ねる根津卓巳は可愛らしかった。笑顔のまま首を横に振って、私も鹿肉のステーキを口に運んだ。初めて食べたけれど、その獣臭さも含めてとても美味しかった。
「これ、とても美味しいです」
素直に口から言葉が出た。
「それは良かった」
今度は、とても人間的な笑顔。さっきは緊張していたのだろうか。サチエのヤリマン仲間を失神させるようなセックスする男なのだから、不釣合いにも思える。でも、根津卓巳の笑顔は拒めない。
デザートは蜜柑のムースだった。甘酸っぱくて、柔らかなムース。食べ終えると根津卓巳はレモン水を注文した。
「食事の最後の最後に飲むとすっきりするんですよ。悠子さんもいかがですか」
断る理由もなく、鹿肉の余韻も残っていたので私も飲むことにした。二つのグラスにはそれぞれ色の違うストローが挿してあった。赤と青のストロー。店員は赤
のストローのグラスを私に、青いストローのグラスを根津卓巳の前に置いた。ちゃちな固定観念でストローの色を選ぶならいっそのこと両方ともレモンと同じ黄
色にすればいいのに。レモン水を飲むと確かに口の中がとてもすっきりして、爽快だった。二人で向かい合いながらストローでレモン水を飲むという行為は愉快
だ。それ以上に、大きな手でストローを持ってレモン水を飲む根津卓巳が可笑しかった。私がこらえられなくなり笑い声を上げると
「楽しそうで良かった」
と、的外れに喜んだ。私はますます笑った。半年振りに心から笑った。
外に出ると根津卓巳は笑顔で言った。
「今日は楽しかったです。また今度会ってもらえますか?」
私は拍子抜けしてしまった。私のことをサチエからどう聞いているか知らないが、サチエが紹介した男という時点で、その日のうちにセックスまで持ち込もうと
すると思っていた。それを私も期待していた。根津卓巳は無邪気とも言える表情で次回のデートを申し込んできた。なぜだろう、この清らかな交際の手順。まる
で中学生や高校生のようだ。
「イヤ」
気が付くとそう返事をしていた。根津卓巳の顔が悲しげな表情に変わる。
「そうですか、それでは仕方がありません。本当に今日は楽しかった・・・」
「今日このまま帰るのはイヤ」
言葉を遮ぎるように私は言った。根津卓巳は笑顔に戻ると、コートの襟を直した。
「わかりました。では雰囲気の良いバーを知っているので、そこへ行きましょう」
私は黙ってうなずくと、根津卓巳の腕に自分の腕を絡ませた。まるで何年も付き合っているカップルのようにしっくりときた。根津卓巳は驚いた様子もなかった
が、とても嬉しそうに顔をほころばせる。いつの間にか雪が降り始めていた。雪の中で見ればスノーマンに近いのかもしれないけれど、やっぱり象に見えた。ど
こかにオスの匂いとともに寂しそうな表情があったからかもしれなかった。