逆流
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一時間に一本しか電車の通らない線路の近くに、僕が足繁く通う銭湯がある。大きく、見事な桜の木が名物で、名前も「桜湯」といった。風呂場の窓から見える満開の桜は、くすんだタイルを一瞬染め直してしまうほどの美しさだ。しかし、五月も半ばになるとさすがに葉桜になってしまい、みすぼらしい銭湯でしかなかった。別に風呂が好きで通っているわけではなく、座敷に集まる将棋好きな人たち(といってもほとんどが爺さんで、二十代は僕ぐらいのものだった)と将棋を指すためだった。桜湯は珍しく座敷があって、宴会もできるようになっていた。と言っても、普段は将棋場でしかなかった。大学の講義がないときは殆どと言っていいほどその座敷で将棋を打っていた。腕のほうは下手の横好きそのもので、長年将棋を指してきた爺さんたちには歯が立たなかった。刻み込まれた皺の数ほどある詰め方のパターンにいつも叩きのめされた。四十代、五十代の人も何人かいたが、勝ったところを見たことがなかった。なぜ敵う筈がない爺さんたちと将棋を続けているのかといえば、将棋というものに魅了されたからではなかった。僕はある一人の男と話がしたかったのだ。
初めてその男に会ったのは去年の秋だった。急に風呂に入りたくなって、なんとなくのぞいた桜湯の座敷がいやに賑やかで、妙に気になった。覘いてみると、爺さんたちが輪を作って将棋を打つ二人の男を囲んでいた。片方はどうやら爺さんたちの仲間のようだった。もう一人は四十路は越えているだろうが、見方によっては五十半ばを過ぎているようにも見える男だった。ヘンリーネックのシャツの上にベージュのジャケットを羽織り、灰色のコットンパンツを穿いていた。髪は伸びるままで、くせっ毛のせいかひどくボリュームがあった。うなりながら長考している爺さんは周りの話し振りからすると、どうやらアマチュアの段位を持っていて相当な腕前のようだった。男は涼しい顔で煙草をふかし、緑茶を啜っていた。局面は圧倒的に段位を持った爺さんの方が不利なのは素人目にも明らかだった。詰まれるのは時間の問題で、何とか切り抜けようと長考しているようだが徒労に終わりそうだった。僕は何手先までも読むなんて芸当は出来ないが、男の持つ雰囲気からか爺さんの負けは確定していると感じた。障子の近くに立ったままその勝負が終わるのを見ていた。周りからはアドバイスや応援の声が飛び交い、うなる爺さんと茶碗を持ったままの寡黙な男を包んでいた。僕が座敷に顔を出してから三十分ほど経っただろうか、爺さんは長考をやめ一言「負けだ、負けだ」と言って掴んでいた王将を放り投げた。勝負が着くとギャラリーは散って、将棋を指し始めるのもいれば、風呂に行ったのもいた。男はテーブルの前に腰を下ろすと、ポットから急須に湯を入れ、空になった茶碗に茶を注いだ。お茶請けの大福を頬張りながら窓の外を眺めている男を、僕はたまらなくかっこいいと思った。その超然とした様は僕の青臭さとは同居できないものだった。ただ、同時に全てのものを拒むような哀しみのようなものがあった。風呂に入るという本当の目的も忘れ、そのまま桜湯を出た。秋も終わりかけの風は強く、響くように音を立てて吹いていた。道端の石を拾い上げ川へ向かって投げると小さく水のはねる音がした。
それ以来、ベージュのジャケットの男の持つ雰囲気というものを求める自分がいた。雰囲気の根源にあるものを知りたかった。そこには一つの道筋が見える気がした。ぶらぶらと大学に通いながら日々を過ごす、緩慢で怠惰な人間には見えないはずの道。その道への入り口を男は知っているように思えた。だから桜湯で将棋を指し、契機を待つことは地図の中から道を探すことに等しかった。
もう雪がちらつき始めた頃、男に再開することが出来た。その時も変わらず同じベージュのジャケットを着ていたが、中にはこげ茶色でVネックのセーターを着ていた。座敷は暖房と熱気で暑すぎるほどだった。中に入ると男はセーター一枚になり腕まくりをすると、茶碗を持ってテーブルへ向かった。僕はどうやって話しかけようかしきりに考えていた。将棋盤の上に形成された陣地は攻められぼろぼろだったが、木で出来た駒の行く末などどうでもよかった。座布団に座って将棋を見ている男に一人の爺さんが近づいた。以前、長考の末負けた爺さんだった。どうやら再戦を挑みに行ったらしかった。話がつき、指すことになったようだったが将棋盤が空くのを待たなくてはいけないらしく、二人とも茶を飲みながら話をしているようだった。僕は少し考える振りをしてから、自分の対戦相手に「参りました」と言った。そして、テーブルでぼんやりとしている男に将棋盤が空いたことを伝えた。
「おう、にいさんありがとな」
かすれ気味の声だった。僕は男の後ろに陣取った。対局が始まると周りはいつの間にか人だかりになっていた。爺さんの方は一手一手を慎重に選びながら指しているようだったが、男は五秒考えれば長いくらいだった。唾を飲み込むことさえためらわれた。爺さんの攻め方は男にはまったく通用しなかった。開始して二十分も過ぎただろうか、今回は爺さんも長考をしようとはしなかった。
「だめだぁ、歯がたたねえや。勝てる気がしねぇよ」
鳥肌が立つほど完全な勝利だった。勝負が終わると、男は急に後ろを振り向いた。
「参考にもなりゃしないだろ。俺の指し方はめちゃくちゃなんだからよ」
口の端で笑いながら話しかけられると、妙に緊張してしまった。
「将棋の指し方見てたわけじゃないんです。かっこいいなって思って見てただけなんです。超然としてて、先を見通しているような感じがして。なにか、全てが逆向きというか・・・」
男は珍しいものを見るような目つきになり、少し考えるような仕草をした
「今日これから暇かい?ちょっと飲みにいかないか。俺がおごるからさ」
男が何を思って僕を飲みに誘ったのかわからなかったが、ゆっくり話が出来るというだけで二つ返事で飲みに行くことにした。
「俺は沢木っていうんだ」
「僕は・・・」
沢木さんは名乗ろうとする僕を手で遮った。
「いいよいいよ言わなくて。俺は人の名前はあんまり聞かねえようにしてるんだ。聞きたくなったら俺から聞くからさ。とりあえず行こうや」
そう言うなりジャケットを羽織り、玄関へと歩き始めた。僕もダッフルコートを羽織って、急いで外へ出た。外の空気は座敷との温度差もあって縮みあがるほどに寒かった。沢木さんは薄着なのに寒そうな素振りも見せなかった。
「その格好で寒くないんですか?」
「ああ、寒さ感じるほど余裕のある生き方してねえからな」
沢木さんの言葉の意味はよくわからなかった。後ろについて歩いていると一つのことに気がついた。よく見なければわからないくらいだが、どうやら右足が悪いようだった。少しだけ引きずるように右足をかばいながら歩く沢木さんの後ろ姿は、街並みを拒んでいるように見えた。
『焼き鳥バンチ』は時間帯が少し早いとはいえ、相変わらず空いていた。僕は味のほうは割合に好きだし、値段も安いほうだと思う。しかし、マスターが気難しいのと、駅自体の利用者が極端に少ないこともあって店はさほど儲かっていないようだった。席に着くと、沢木さんはビールを注文した。僕は大学の友達とたまに来ることもあり、焼酎のライム割りが濃くて旨いことを知っていたので注文した。焼き鳥は盛り合わせを頼むことにした。レバーが入っているのが嫌だったが、こまごまと注文するとマスターが渋い顔をしそうなので我慢した。
「俺の将棋をじっと見てたけど面白かったかい。つまんねえだろ」
「うーん、面白いとかつまらないとかそういう次元のものじゃないですね。うまく言えないけど、『凄み』みたいなものを感じて、見続けるしかなかったんです。もちろん「凄み」っていうのは将棋的なものではなくって、もっと一般化されたものなんですけど」
「へえ、そんなふうに言われたのは初めてだよ。おもしれえなあ。確かに俺の将棋の指し方はカスみたいなもんだ。もっとも、勝ち負けという意味では負けることがないんだから他人から見れば痛快なのかもしれないけどな」
そう言って沢木さんはビールを一気に飲み干して、二杯目を注文した。僕はつくねをかじりながら、グラスの中のグリーンの液体を眺めていた。
「つまり、こういうことさ。俺は相手の何千手先だろうが見えるんだ。ぼんやりとしているときもあるし、いやにはっきりとしてる時もある。予知みたいにオカルトっぽいもんじゃあないぜ。俺の中に痛みが生じるときに、将棋版の上に逆流が生じるのさ」
僕は「逆流」というものが何を表しているのか分からなかった。それに沢木さんの話は普通に聞いたらインチキくさいものだろうとも思った。
「いきなりこんなこと言われても困るだろうな。うまく言えないんだよなあ。長い話になってもよければもうちょっと分かり易くなると思うんだが、年寄りの長話に付き合ってくれるかい?」
「是非聞かせてください」
「ただ話が終わった後も腑に落ちねえかもしんねえし、聞かないほうが良かったと思うかもしれない」
そう、言うと沢木さんは二杯目のビールも飲み干した。そして、店の中はけして暖かくもないのに日本酒を冷で頼んだ。僕はのどが渇いていたのに気が付いて、ライム割を一気に飲んだ。氷が解けて薄くなっていたライム割りは、やけに口の中を不快にした。ライム割りは注文せず、ビールを頼んだ。注文したものが出される前に沢木さんは静かに話し始めた。
「俺は今、五十三なんだが、やっぱこれくらい生きていると色んなことがあった。
高校を出てすぐに鉄工所に入ったんだ。がむしゃらに働くのが当たり前の時代だったんだ。で、とにかく働いて、日銭をズボンの後ろポケットに詰め込んで飲みに行くのが唯一の楽しみだった。勉強のほうはからっきしだったから肉体労働で身を削って稼いだ少しばかりの金で酒を買い、疲れきった体と自分を誤魔化すしかなかった。その頃通ってた飲み屋はもう名前も覚えちゃいないが、昔にしては珍しく二、三人の若い娘が酒を運んできてくれる店だったんだよ。つまみが美味い店だった。材料は貧乏臭いが、手作りで芯の通った味だった。そのうちの一人の娘を気に入って、しょっちゅう話し掛けていた。そのうち二人で会うようになって、金もないから二人で公園を散歩したり、部屋でラジオを聞いたりした。二人の仲が深まっていくうちに相手方の親に交際を止めろと言われたりしたんだが、そのまま結婚した。何もない安アパートに二人で逃げ込むように引っ越して、ほどなくして息子もできたから一層仕事に精を出して、酒も控えるようにしたんだ。そんな時だ、忘れもしねえな、二十七の時だ。仕事中に眩暈がしたかと思うと、資材置き場に置いてある鉄くずに向かって倒れてね、気が付くと休憩室に運ばれていたんだ。工場長は、働きすぎだとは思うが一応病院に行けってね。まあ、仕方がないから病院に行ったんだが、詳しく検査したいって医者が言いやがった。一週間して電話がかかってきたんだよ、至急入院しろってな。癌だった。酒を飲みすぎたせいかな、肝臓癌だと言われた。九割方死ぬだろうってな。手術しても何の保証もないって、半ば医者に匙を投げられたんだ。その時女房が、それでもお願いしますって言ってね。俺は駄目だと思ってたから、金の無駄だしそんな金もないだろうって言ったんだよ。そしたら女房が自分の父親に借金して金作ってくれたんだ。縁切られてたのによ。偶然が重なったのか俺は助かったんだ。不思議な気持ちだったよ、死ぬ覚悟が付いていたのに生きてる自分がいたのがね。
それから三年くらい何事もなく仕事して、暮らしてたんだ。そんなときさ、春先に息子が死んだんだ。まだ四つだった。突発性の腎臓癌ってやつで、具合が悪くなってから二日ともたなかったよ。女房は『あんたの血のせいだ、あんたが殺したんだ』って泣き叫んで、頭が狂っちまった。俺は仕事に没頭して息子のことを忘れるしかなかった。家に帰れば家事もしないで、編みかけの息子のセーターを膝に乗せたまま宙を見つめたままの女房がいたしな。」
疲れたのか話を止め、冷酒を一口含むと頬杖をついた。目はうつろになっていて、顔は紅潮していた。酔いのせいだけとは思えなかった。
「そして、どうしようもなくなって女房を精神病院に入れたんだ。息子のこと、女房のことを忘れるために仕事に没頭した。身体を追い込んで、くたくたになるまで仕事をすれば少しはましだった。アパートに帰ってきて一人きりで冷たく、まずい飯をかき込んでさっさと寝る。また朝早くから仕事に行く。そんな毎日の繰り返しだった。たまに病院に様子を見に行ったが、一向に良くなる気配もなかった。見舞いに行った夜にはどうにも眠れなくてな、酒は癌になって以来止めてたから寝酒も飲めなかった。実際は飲みたくて仕方がなかった。現実から逃げたかった。そんな時は息子の遺影の前に行って突っ伏して泣いたよ。こんな現実ならいらない、全てが真逆であってほしいそう思った。
そんな暮らしは、永劫続いているのかと思うくらいに長く感じたよ。七年前だ、そんな生活が終わったのは。息子が死んだのと同じ日、女房が病院で自殺したんだ・・・」
沢木さんはそこまで話すと、テーブルに突っ伏してしまった。ひどく疲れているようだった。思えば話をしている時の声も、何かを絞り出すような苦しげなものだった。しばらくすると寝息が聞こえてきた。時計に目をやると八時を少し過ぎていた。
「なんだい、沢木ちゃん寝ちまったのか。連れのにいちゃん、沢木ちゃんはうちの二階に寝せておくから先に帰ってかまわないよ」
そう言ったのはマスターだった。どうやらかなり知っている仲のようで、しょうがないなといった様な表情だった。マスターがこんなに人なつっこい表情をすることは以外だった。マスターは沢木さんを引き起こし、肩を貸して二階に連れて行こうとした。その時に見えた沢木さんの顔、その目には涙があった。自分の身の上話の途中で酔いつぶれ、涙目のまま眠るなんて沢木さんには似合わなかった。
「それじゃあ、すいません。帰ります・・・」
「おう、また来てくれや」
挨拶もそこそこに、僕は店を出た。吹き荒ぶ寒風を寒いとは感じなかった。駅前を煌々と照らす街灯の光が身を突き刺すようだった。そのまま近くのコンビニへ寄って缶コーヒーを買った。口に含むと無糖のコーヒーは苦かった。甘いコーヒーしか飲めない僕がなんでこんなものを買ったのか、苦い後味を感じたときに不思議に感じた。流し込んでしまい空になった缶を力いっぱい握り締めた。僕の予定では缶は原型のないくらいにつぶれているはずだった。しかし、手の中にはほんの少しへこんだだけのコーヒーの缶があっただけで、僕の力ではスチール製の缶さえ握りつぶすことなどできなかった。