母親代理人
1
父は僕が小学二年生のとき、何処かへと消えてしまった。本当に音もなく、跡形もなく消えてしまった。それからというもの、僕の片耳は聞こえなくなった。医者に診てもらっても原因不明だといわれた。二十歳を過ぎた今でも、右耳は音を遮断している。その代わりなのか、僕自身は消えずに済んだ。
僕の家は文房具店を営んでいた。学校から帰ってくれば店には新聞を読んでいる父がいて、奥の茶の間には昆布茶を啜る祖母がいた。でも、台所で夕飯の用意をする母親はいなかった。そんなものは最初からいなかった。自分に母親がいないことが普通ではないことは理解していた。寂しいとは思わなかったし、見たこともない女の人を恨む気にもなれなかった。地方都市の文房具店で、父と祖母と僕の三人での生活。それが僕の「ふつう」だった。
日々の生活に不平不満はなかったけれど、晩御飯のときだけ悲しくなることがあった。食卓に並ぶ、おかず。ほうれん草の胡麻よごし、鰈の煮つけ、だし巻き玉子、風呂吹き大根。そんな純和風で、おおよそ子供が喜ぶとは思えないおかずだった。でも僕は嫌いではなかった。むしろ祖母の作るそれらは絶品で、美味しかった。それでも子供心にはもっと洋食が食べたかった。ハンバーグだとかオムライスだとか、子供が喜ぶようなおかずだ。もちろん、大正生まれの祖母のレシピにそんな類の料理は存在しなかった。ライスカレーやハムカツ程度が限界だった。今、思い出すと祖母の作るだし巻き玉子や煮つけはもう二度と味わえない代物なのだろうと思う。僕はガールフレンドが代わるたびにだし巻き玉子を作ってもらうのだけれど、美味しいと思ったことは一度もなかった。
2
ある暑い夏の日、それは父が消えた日なのだけれど、祖母は珍しく買い物に一緒に行こうと言った。校庭で遊びすぎて疲れていた僕は、ランドセルを茶の間の隅に置きながら無関心な返事をした。近所のスーパーマーケットに夕飯の材料を買いに行くのだ。ところどころ、い草が擦り切れてしまった畳はやけに黄色く見えた。材料を買いに行くだけなのならば行かない、と僕は言った。祖母は何も言わず、麦茶の入ったコップに手を伸ばした。コップはよく冷えた麦茶の冷たさで流れるほどに汗をかいていた。ガラスの表面に噴き出した水滴は歪みながら、祖母の皺だらけの掌に沁み込んでいった。
「芳治、お前はばあちゃんと一緒に買い物行って、荷物を持ってやろうという気はないんか」
急に、新聞を読んでいた父が呟くように言った。座っている丸くて黄緑色のビニールカバーのかかった椅子が軋んだが、こちらを振り向きはしなかった。父は大声で怒ることは絶対にしない、温厚すぎるほどの人間だった。身体も小さく、茶の間から見える背中は小さかった。それでも、呟くように放つ言葉には逆らえない迫力があった。僕は返事も出来ず、見えもしないのに頷いた。祖母の傍に行って謝ると、謝らなくてもいいというように頭を撫でた。それから一苦労といった表情で立ち上がると、麦茶の容器を冷蔵庫にしまい、身支度を始めた。財布を巾着袋に入れ、腰をかがめてつっかけを履いた。
「芳雄、じゃあ行ってくるよ」
父は新聞を読みながら黙って手を上げただけだった。新聞紙で隠れた顔はどんな表情なのかと思いながら、僕も靴のマジックテープをくっつけた。祖母は玄関先から父を見つめていた。逆光で眩しく、悲しそうな顔つきにも見え、慈しむようでもあった。僕は背中に冷たい汗が流れるのがわかり、急いで玄関から飛び出した。
祖母のゆっくりとした歩調に合わせるように、太陽は徐々に傾いていった。スーパーに着く頃には空は真っ赤になっていた。店内はタイムサービスで熱気が増し、僕のTシャツにどんどん汗が染み込んでいった。店員がサービス品の品名を連呼し、おばさんたちは躍起になって手を伸ばしていた。そんな人だかりの横を通り抜け、カート置き場へと向かった。祖母がゆっくりと押すカートの目的地は精肉売り場だった。祖母は合挽きのひき肉をカゴに入れると笑顔で僕の頭を撫でた。
「今日はねえ、ハルちゃんが食べたいだろうと思ってハンバーグにしようと思ってるんだよ」
祖母はとても勘のいい人だった。霊感だとかそんな安っぽいものではなく、純粋に感が鋭かった。だから、不満を感じ取っていたのだ。嬉しかったのだけれど、すぐに不安になったのを覚えている。違和感というのか、おそらく僕の表情は強張っていたのだろう。祖母は怪訝そうに僕の顔を覗き込んだ。僕は必死で笑顔を作り、カートに手をかけた。早く家に帰りたかった。おかずは何だっていいから、いつもの「ふつう」の食卓を確認したかった。何が僕を急かすのか、それは家を出るときに見た祖母の父を見る眼であり、どこへとなく向けられた父の手だった。カートは色のない野菜の並ぶ売り場を抜け、深海魚のように見える魚の前を通り、レジに到着した。祖母が財布からお金を取り出す動作でさえ、映画のスロウモーションよりも遅く感じた。当時の僕には大きく感じたビニール袋を両手で必死に抱え、祖母に先立って歩いた。
「ハルちゃん、そんなに急いだら危ないよ。急いでも、何も変わらないから」
僕は祖母の言うことを聞こえないかのように歩き続けた。時おり見上げる空はすでに赤黒くなり始めていていた。同時に僕の中にも、得体の知れない違和感が入り込んでいた。
家に着く頃には七時近くになっていた。明かりのない店内は闇が全て集約したかのように暗かった。店内に父の姿はなく、奥へと引っ込んでいるらしかった。僕は息切れしながら、大きな声で「ただいま」と言った。声は暗闇に吸い込まれて消えた。
「芳雄、帰ったよ。いないのかい?」
祖母も不安げに声をかける。それでも茶の間からは、何の反応も返ってはこなかった。祖母は二三度首を振ると中に入り電灯をつけた。その日の食卓には、湯気の立つハンバーグが祖母と僕の分だけがあった。父がいつもいるはずの上座には何もなかった。口へハンバーグを運んでみても味はほとんどしなかった。美味かったかどうかも思い出せない。でも、本来ならば幸福の偶像である肉の塊は、今も腐臭を放ちながら体内に存在しているような気がする。その日を境に、僕の中から「ふつう」の生活は消去された。
僕が十七の時に祖母は逝ってしまった。大腸癌だった。たいして苦しみもせず、安らかな臨終だった。でも、祖母が意識の白濁となる直前に言った言葉は悲痛な叫び以外のなにものでもなかった。
「芳雄を、お父さんを許してやっておくれ」
それは僕の右耳にも届いたように感じたほどだった。「許す」?何を?許すも許さないも、僕は何に対して感情を向けるかさえ知らないのだ。祖母の通夜などは叔父が仕切ってくれた。叔父は、店を売って養子になるように言ってくれたが、僕はこの店を続けていこうと決めていた。高校の残りの一年間だけ叔父の家に世話になり、卒業してから店を再開した。
不思議なことだが、二十二になった今でも店の経営が苦しくなったことはない。僕が暮らしていくのに十分な収入は確保できていた。週に一度、火曜日だけを定休日にして僕もそれなりの自由な時間を楽しんでもいた。僕は生まれてから今までに、恋愛感情というものを抱いた経験がなかった。火曜日にはその時に関係を持っているガールフレンドと過ごすことが多かった。自分の容姿はけして男前というわけではなかったが、肉体関係だけの女性ならば十八の時から一ヶ月と途切れたことがなかった。ベッドで寝ているとき、女たちは決まって右耳に唇を押しつけて大声を出した。そして、僕が平然としているのを見て、片耳だけ聴力を失っていることを確認した。そこまでは、どの女も同じだったがリアクションはそれぞれだった。可愛そうだと僕の顔を自分の乳房にうずめて泣きだす女もいれば、面白がってカラカラと笑い出す女もいた。僕には女の体内に精子を放出すると、直ぐに眠くなる癖があった。その気だるいまどろみの中で、いつも父のことを考えた。父が消えた理由。もしかすると、母を探しに行ったのではないか。そして、予感というか、予想は九分通り当たっていたことを後で知ることになる。でも、そこに辿り着くまでには気だるいまどろみを何度も繰り返す必要があった。
3
ここで奇妙な客の話をしようと思う。それは、気だるいまどろみの行き先を示すものでもあるからだ。文房具店でそんな客を接待するということは滅多にない。僕が明確に記憶している限り、三人だけ。
一人目、ある日開店とほぼ同時に入店してきた老紳士。もう春から夏に移行する時期なのにウールのコートを着込んでいた。入り口付近の万年筆を一本手にとり、蓋を開け、その先端を見つめていた。一日中。僕は昼飯も食わずに、その老人に付き合った。弊店間際、老紳士は無言で万年筆をレジに持ってきた。一万円札を出すと、釣りはいらないとでも言うように手をかざした。僕は黙って頷き、老紳士は万年筆をコートの内ポケットに入れた。外はすっかり暗くなっていた。老紳士は店を後にし、ステッキの地面を打ち鳴らす音だけが響いた。ステッキ?僕が気付かなかっただけなのだろうか。どちらにしろステッキの音はだんだんと小さくなっていった。
二人目、簡単に言ってしまうのならば、少し頭がおかしい男。三十歳くらいで、薄いレモンイエローのポロシャツを着ていた。髪型はボウズで、髭剃りあとは青々としていた。彼は「究極の消しゴム」を探しているのだと言った。僕はそれがどういうものかわからなかった。関わりあいにならないことも出来たが、興味深かったのでどのような消しゴムか質問した。男は額の汗をポロシャツで拭うと説明し始めた。
「その消しゴムは何でも消せるんです。ボールペンで書いた字も、絵の具でも。いや、そんなスケールの小さな話じゃない。全てを消せるんです。私自身も、あなたもです。抽象的なものや、形のないものだって消せるんです」
男は汗を流しながら、夢中で喋った。でも、僕はなにも感じなかった。だから、一つ意地悪な質問をした。
「歪みも?」
男の額から流れる汗の量が目に見えるほどに増え、俯いてしまった。僕は興味がないといった態度のままレジに戻り、文庫本を読み始めた。男は何かをぶつぶつと呟いていた。「臭うんだよ」と言っているように聞こえた。しばらくすると、店内の静寂の中に男の嗚咽が混じり始めた。煩わしいだけだった。無視して文庫本を読み続けると、いつのまにか嗚咽は消えた。顔を上げると男の姿はなかった。立ち去る靴の音が聞こえなかったように思うのだが、事実として男はいなかった。ひょっとすると「究極の消しゴム」を見つけたのかもしれなかった。閉店後の商品チェックの時、気になって消しゴムの残数と販売数を確認した。
〈残数 二十六個/販売数 二十三個〉
五十個セットの商品だった。「馬鹿馬鹿しい」と僕は呟いた。ひどく質の悪い童話だ。
三人目、それは一昨日の昼過ぎに現れた女性。
「私はあなたの母親なのです」
見たこともない中年の女性はそう言った。いたずらにしては突拍子もなさすぎた。女性にしては上背があり、一七〇センチ近くありそうだった。上品な桃色のサマーニットにベージュのスカートを穿いている。軽くパーマをあてた髪はうっすらと茶色だった。顔には年相応の皺があり、柔和だった。四十代半ばだろうか、美人といって差し支えない顔立ちだ。でも、僕の記憶の中にインプットされている顔ではなかった。女は話を聞いてもらえないかと言い、同時に葉書を僕に差し出した。その宛名にはどこかの会社名が書かれていたのだが、その字体は明らかに父のものだった。
「父が、この葉書をあなたに?」
女は苦笑いに近い微笑を浮かべるだけだった。選択肢などは存在せず、女の話を聞くことは決定されていた。僕は店の入り口を閉め、外出中の札をかけた。
僕はテーブルをはさんで僕の母親だと言う中年女性と向かい合った。思えば小学二年生の夏までは、この茶の間が僕の「ふつう」の象徴だった。畳は今年の春に変えたばかりで、まだ青々としている。あの日の黄色くなった畳はもうない。何か飲み物でも出さなくてはと思い、台所へ行って冷蔵庫を開けた。僕が取り出すのは麦茶ではなく、ペットボトルの烏龍茶だ。何故見知らぬ中年女性(母親と名乗っているけれど)の訪問がこれほどまでに僕を揺さぶるのだろうか。薄い緑色のグラスに烏龍茶を注ぎ、テーブルの上へ置いた。
「私があなたの母親と言う言葉の意味は、私がお腹を痛めてあなたを産んだということではありません。事務的であり、精神的なものです」
そう言うと、女は名刺を一枚差し出した。
〈代理人商会所属・母親代理人 平井 加寿子〉
「あなたのお父様は私にあなたの、芳治さんの、母親になることを依頼なさりました。具体的な依頼内容は次の通りです。一つに、一緒に暮らして家庭というものを形成すること。二つに、叱ったり抱擁したりすること。三つに、眠っているうちにあなたの命を奪うこと。この三つです」
この女は頭がおかしい、としか思えなかった。一緒に暮らす?抱擁?僕を、殺す?どれも滑稽な言葉の羅列でしかなかった。唖然。それは、その時の僕そのものだった。
「費用のほうは前払いでいただいております。当然、芳治さんには拒否権があります。しかし、お金を返還することは出来ません。ですが、その金額に相応な代わりの物を用意させていただきました。拒否権と言う言葉は正しくありませんでしたね。芳治さんには選択権があります」
父は、何故こんな馬鹿げたことをしたのだろう。第一、最後にはこの女に眠っているうちに殺されるという結末は何だ!父は僕の母親を探しに行った。でも、父が選んだのは母親代理人だった。こんなことのために、僕の「ふつう」の生活と右耳は壊れてしまった。
「帰ってください」
女の顔を見ず、出来るだけ声が震えないように言った。
「どちらになさいますか?」
間の抜けた声で女が尋ねる。
「帰ってください・・・」
僕はもう一度、でも今度は震えた声で言った。
「では、母親代理のほうはお望みでないということですね。わかりました。では、この紙をどうぞ」
女はB5サイズの紙を裏にしたままテーブルの上に置いた。
「これが、代わりのサービスです。では、失礼させていただきます。もし、ご依頼あればお電話くださいませ」
女はゆっくりと立ち上がると深々と礼をした。僕は下を向いて目を瞑った。泣いていたかもしれないが、よく思い出せない。入り口の戸が開く音がして、女は帰っていった。テーブルの上の裏返しの紙は、触れてしまっては指先がただれてしまいそうな気がした。僕は紙をそのままにして、ガールフレンドに電話をかけた。
外に出かけるのが億劫で、家にガールフレンドを呼んだ。そして、当たり前のようにセックスをした。いつもよりも激しかったように思う。酷く乱暴な言葉を使い、強引に抱いた。終わったあとで僕はガールフレンドに謝った。情けない、無様な男。「気にしなくていいわよ」と言いながらガールフレンドは笑った。「ねえ、何か飲み物もらうわね。喉が渇いちゃった」と言うと、裸のまま台所に行った。この時ばかりは不思議と眠気は襲ってこなかった。むしろ頭の中に風がふくような音が鳴り響き、落ち着いていられないような苛立ちを覚えていた。
「この紙なんなの?」
その声で茶の間を見ると、片手には烏龍茶の入ったグラスを持ったガールフレンドが、テーブルの上にあった白い紙を手に取っていた。
「何か住所みたいなものが書いてあるわよ。その下に、コンビニエンスストアの名前と、22時から4時って書いてあるわ。ホントに何これ?」
僕には紙に書かれた内容が何を示すのか瞬時に理解できた。それは僕の「ふつう」の居場所だ。
「商品の卸先のメモさ、気にするなよ」
そう言って誤魔化すと、急に眠気が襲ってきた。まどろみから覚めたならば旅支度をしなければならないだろうと思った。
4
山の緑も夕暮れ時には黒く見え、明るい空気全てを吸い込んでいるようにさえ見える。僕は、あの母親代理人が置いていった紙に書いてあった場所を求めて此処まで来た。内陸県で山ばかり、その上人口が五万にも満たない地方都市。こんな場所に何があるというのか。コンビニエンスストアである。紙に書いてあったのはこの地方都市に存在する、全国チェーンのコンビニエンスストアの住所だった。なんだって僕はこんな馬鹿馬鹿しいことをしているのだろう。あんな怪しい女が置いていった紙の通りに行動している。これじゃあ、以前店に来た「究極の消しゴム」を探していた男となんら変わりはないじゃないか。僕の足取りは一層重たくなり、疲れは何倍にも増した。あの紙には、もう一つの情報があった。「22時から4時」という時間。おそらく、コンビニの店員の出勤時間だ。22時から4時の間にコンビニで働いている人間に会えということだろう。それが誰でも構いはしない。でも、会わなくてはいけないような気がした。
十時まではだいぶ時間があったので、喫茶店に入ることにした。坂の途中にある、わりと小奇麗な店だ。戸を横に滑らすと鐘の音が幽かに鳴った。「いらっしゃいませ」という落ち着いた声とともに、だいぶ年のいったマスターがおしぼりを持ってきた。老人、と言って差し支えないだろう。僕はその老人を知っていた。あの時、万年筆を買っていった老紳士だ。その上品な顔立ちは忘れようもなかった。しかし、喫茶店のマスターは僕のことを知っているような素振りはしなかった。焦りを隠しながら、カフェオレを頼む。「かしこまりました」という落ち着いた声。店内は暗めの照明で、ヨーロッパ風の壁紙が張られていた。大きな壁時計が僕の座っているテーブルの真正面にあり、針の音が静寂の中に響いた。針の音のせいか、冷静になり始めた僕は店の奥の方に眼をやった。使い込まれた豆挽き器や、カップが置いてある。何種類もの珈琲豆が袋で、おそらく生豆のまま、山積みにされてあった。世の中には似た人なんていくらでもいるのだ。そう頭の中で繰り返しながらカフェオレを待った。よく煎られた、鼻腔を溶かすような珈琲の香りが漂い、そのあとにうっすらとミルクの香りが混じった。「お待たせしました」。そう言ってマスターがカフェオレを運んできた。白い綿の半袖シャツの上に、黒いベストを羽織ったマスターは微笑みながらカップを置くと、ゆっくりと店の奥へと戻っていった。カフェオレを飲もうと口へ運んだ瞬間だった。壁時計が想像をはるかに越えた大きな音を鳴らしながら、夜の九時を告げた。僕は危うくカップを落としそうになる。壁時計を見上げると、仕掛け時計だったようで、中央部分の蓋が開いた。そこから奇妙な化粧をしたピエロが出てきて、ゼンマイ仕掛けの動きで玉乗りを始めた。目ばかりがやけに大きく、ぎょろりとしていて気味が悪い人形だった。一通りピエロの演技が終わると、蓋はゆっくりと閉じられた。せっかくのカフェオレの味もわからなくなってしまった。
カフェオレを飲み終えて、煙草をニ三本吸っても十時まではまだ三十分も時間があった。仕方がないので、早々とではあるがコンビニへ向かうことにした。会計をしようと声をかけたのだが、来る様子がない。仕方なしにもう一度椅子に座りしばらく待つことにした。手持ち無沙汰にメニューを眺めたり、店内を、もう一度見回したりした。そんなことをしているうちに壁時計は十時を知らせはじめた。頭の中にいつまでも響いているような音。そして、動き出す仕掛け。また、あの気味の悪いピエロが登場するのだ。蓋が開いた瞬間。先ほどのピエロがゆっくりと歩を進める。その大きくて、空ろな眼。斜め上を見ていたはずの眼は僕をはっきりと見下ろしていた。ピエロは玉乗りをしようとはしなかった。ただ、じっと僕を見つめるだけ。右耳がじりじりと痛み出し、耳鳴りが頭の中に充満していく。吐き気が襲ってきて、トイレに駆け込む。そのまま、意識は混濁していった。
「お客様大丈夫ですか?」。相変わらずの落ち着いたマスターの口調。気がつけば、洋式の便器に腰掛けていた。大丈夫だというように手をあげ、マスターの後についてテーブルに戻る。壁時計を見上げると。時間はもう午前一時を十分ばかり過ぎていた。
「すいません。こんな時間まで。お会計を・・・」
「いいえ、気になさらないで下さい。ときたまいらしゃるんですよ、具合を悪くなされる方が。この、壁時計のピエロをご覧になったのでしょう?」
僕は黙って頷いた。
「店をやってる私は一度も見たことがないんですがね。具合を悪くなされる方は全員が全員、ピエロが見下ろしてきたって言うんですよ。そういうお客様からはお代は頂戴しておりません。どうぞ、またいらしゃってください」
そういい終わると、マスターはカフェオレのカップを持って店の奥へと消えていった。
5
もう完全に夜中になってしまった。町中から明かりが消え、スナックの薄暗いオレンジ色の明かりと街灯以外の明かりはほとんど見当たらなかった。僕が目指すコンビニは町の繁華街を抜けた住宅地に位置しているようだった。大きな曲がり角をまがると、地図で見たとおりわりと大きな個人病院があった。住宅地といっても団地などがるわけでなく、人家といくつかのアパート、その間に個人商店が混じっているようなそんな場所だった。しばらく歩くと、遠くの方にいやに明るい店舗が見えてきた。大きな看板には、僕の目指す全国チェーンのコンビニエンスストアの名前があった。薄暗い町を歩いてきたせいか、いささか眩しすぎる明かりに圧倒されながら、僕はコンビニの前にいた。窓ガラスにはその強い光に誘われたカメムシや大きな蛾が無数に張り付いている。自動ドアが開き、僕は店内へと入った。
真夜中のコンビニは閑散としていた。僕以外に客はいないようだった。棚には見慣れた商品が並んでいる。なにか商品を手にとって客としてレジに並ばなければ不自然だろうと思い、適当な品物を探す。何か食べたいわけでもないし、本も読みたくはなかった。別に、食べなくても、読まなくても、とりあえず手にとればよいのだがそういう気にはなれなかった。ふと文房具のコーナーが目に付いた。シャープペンシルから糊、セロテープにステプテラーまである。改めて見ると、これでは文房具屋も大変だと人事のように思った。消しゴムは何種類もあり、シンプルなものから子供が欲しがりそうなキャラクターものまであった。何種類もある消しゴムの中で、いやに目を引く黄色い消しゴム。思わず手にとって見ると、表面をおおうセロハンに商品名の印刷されたシールが張ってある。そこには「究極の消しゴム」と書いてあった。僕は思わず、声高らかに笑った。そうでもしなければ、気が変になりそうだった。笑い終えると。「究極の消しゴム」を持ってレジに並んだ。
従業員の控え室と思われるドアから店員が気だるそうに現れた。白髪を掻きながら、うつむき加減で。「いらっしゃいませ」。消え入りそうな声で顔を上げた店員は、年老いてはいたが父に違いなかった。父は驚く風でもなく、ほんの少しだけ表情を曇らせただけだった。バーコードを読み取るピッという電子音が鳴り、ビニール袋を取り出す。
「157円になります」
声は無表情だった。僕は慌てて財布をポケットから取り出す。千円札を渡すと、消しゴムの入ったビニール袋を奪うように掴んで店から飛び出した。
必死に走って、足がもつれて転びそうになって、ようやく町外れまで来た。そこはバス停のようでベンチがあり、そこへ崩れ込んだ。涙なんて流さなかった。でも、今まで抑えていた感情が一気に放出されたような気持ちだった。ビニール袋から「究極の消しゴム」を取り出す。パッケージを破り、月明かりの中で眺める。そして、その黄色い物体で右耳を擦ってみる。何度も何度も、強く。それでも、右耳に音は入ってきそうになかった。
「バカヤロー!」
そう叫んで、消しゴムをおもいっきり投げる。ただ、擦ったところが痺れるように痛いだけだ。僕はポケットから一枚の名刺を取り出した。携帯電話のボタンで九桁の番号を入力する。夜の中に呼び出し音が染み込んでいく。
「はい、お電話ありがとうございます。代理人商会、母親代理人平井加寿子でございます」
「・・・・・・・あの、母親代理をお願いしたいのですが」