黒すぐり

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 今にも朽ちて崩れてしまいそうな木でできた吊り橋。歩くたびに軋むような音がする。板は所々苔が生え、緑色に染められている。湿気もたっぷりと吸い込んでいるのだろう、靴底で踏みしめる感触は湿気たウエハースのようだ。橋を吊るワイヤーも長年風雨に晒されたせいか気味の悪い鈍色になっている。橋の中程にいたっては板が一枚抜け落ちていた。そこで僕は立ち止まった。その長方形の覗き窓からは下を流れる川が見える。3日ほど前の台風の影響がまだ残っているらしく、流れが速い。木の葉や枝などが勢いよく流れて行く。水は不思議と濁っていない。川はたしか「花魁川」といった気がする。云われを詳しく知らないが、不吉なものであることには間違いなかった。顔を上げると橋が大きく揺れるほどの風が吹いた。思わずしゃがみ込む。風は木々をざわめかせ、僕の身体を一瞬で冷やす。秋になったばかりとはいえ、山の中の、しかも橋の上を吹く風は異様に冷たい。なにか羽織るものを持ってくればよかったと思いながら板が抜け落ちた空白を飛び越えた。とにかく静かだ。自然の音以外は何も聴こえない。その静けさからか、軽い眩暈と頭痛を感じた。
 橋を渡りきると高木で形作られたアーケードに出る。昼間でも薄暗い道は、土ではあるけれどしっかりと整えられている。ただ、異様に空気が動かず、冷たく感じる。僕は緩やかな登り坂になった道を真っ直ぐ登って行った。台風のせいで無理やり落とされた葉や小さな栗のイガが落ちている。葉はまだほとんど紅葉していない。十五分も歩いた頃に、看板が見えてきた。ケヤキの板を焦がして作られた看板には、白いペンキで「白麗荘」と書いてある。目的地だ。電話口で説明されただけで、不案内なまま訪れたにしてはあっさりと見つけることができた。敷地内に足を踏み入れるとより一層冷気を感じる。山荘の敷地は森を切り抜いたような場所にあるためか風の溜まり場になっている。これでは寒くないはずがない。震えそうになりながら建物に近づくと、古めかしく大きい入り口の扉が目に入る。建物自体も二階建てで、見上げるほどの大きさだ。辺りは風と、風に揺らされる木々の擦れる音、時おり混じる雉の鳴き声だけが聞こえる。いかにも立派な山荘であっても、こんな奥まった場所では人はなかなか訪れないのだろう。壁や窓、雨樋などをよく見るとくたびれているのがわかる。僕は扉をノックするべきか少し躊躇して、結局ノックせずに扉を開けた。
中は少々薄暗く、陰気であった。宿泊施設のロビーがどこもそうであるように、カウンターがありテーブルと椅子が置かれたフロアがあった。木の匂いといえばよいのか、むっと込み上げるような匂いがする。カウンターに受付の人間は居らず、金色の招き猫だけがしょんぼりと座っていた。ありがちだな、と思いながら招き猫を見つめていると人が廊下を歩くような音が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ。お待たせして申し訳ありませんでした。楠井様の会の方ですか?」
フロアにつながる廊下から初老の男が現れ、僕にそう訊ねた。背が異様に低く、「白麗荘」と刺繍の入った半纏はまるでオーバーコートに見えた。僕は黙って頷き、携帯電話に目をやった。電波の状況を示すアンテナマークの変わりに「圏外」という文字が表示されている。無意味な玩具と化した携帯電話をポケットに突っ込む。
「それでは、お部屋のほうへご案内いたします」
そう言うと、背の低い男は物音も立てずに滑るように歩き始めた。山荘の概観は至ってシンプルな洋館だったが、内装は実に曖昧だ。洋風とも和風ともつかず、主張というものが何も感じられなかった。壁にあるレンブラントのレプリカの横には立派な掛け軸があった。崩し字のため僕には読めなかったが、その筆の軌跡が素晴らしいものであることは分かった。いくら素晴らしくても、レンブラントと掛け軸は横並びに存在してはいけないような気がする。見回せば、柱や梁に使われた艶やかな肌の木が目に映る。琥珀でコーティングしたかのようなニスの光が室内に広がっている。壁も薄いベージュで、とにかく空間全体が薄ぼんやりとしていた。だから客用のスリッパと背の低い男の着る半纏の色がやけに目に付く。エンジ、ボルドー、ヴァ―ガンディとにかくそんな感じの色だ。僕が眼に映るものをぼんやりと見ているうちに背の低い男は階段に足をかけていた。僕も後を着いて行く。背の低い男は身体をほとんど上下させず階段を登り、無言で僕を案内する。階段を登りきると目の前には客室のある廊下があった。どの部屋も入り口はすっかり同じ作りで、横引き戸になっている。部屋の名前が書かれた札がなければどれがどの部屋か分からなくなってしまいそうだった。この廊下はシンメトリーを形成している。朝霧・椛・椎の葉・万寿菊・山風、部屋の名前は統一感がなくばらばらだった。対称なのか非対称なのかどっちつかずだ。背の低い男は歩調を緩めない。どうやら楠井の待つ部屋はこのどっちつかずの空間には含まれないようだった。僕は楠井という名前は始めて聞いた。携帯にはドッグと登録してある。彼が初め僕に名乗った名前だ。本名は楠井というのだろう。ありふれてはいないが、格別珍しくもない名字だ。そんなことを考えながら、いつの間にか強張っていた首をゆっくりと回した。背の低い男は足を止め、廊下の一番奥にある部屋の戸をノックする。三回。この部屋には札はかかっていない。少し間があって、それから低い声の返事が聞こえる。背の低い男はお役目終了といった感じに半纏の襟元に手を添えて形を正す。そして僕に一礼し、来た時と同じく身体をほとんど揺らさずに戻っていった。
 
 僕が楠井つまりドッグの会をどうやって知ったのか定かではない。おそらくインターネットだったと思う。膨大で茫漠、そんな情報の海から釣り上げたと考えるのが無難だ。会は名前をドッグゴッド(DG)という。犬の神。奇妙な名前だ。楠井の何十倍も奇妙だ。とにかく僕の頭の中には、会の名前・会の概要・会の規約しか残っていない。携帯電話の中には主催者の、つまりドッグの、メールアドレスがある。そういったものを僕がどこで見たのか。やはり無秩序に流れるデータをパソコンのディスプレイに映して見たのだ。
《DGの概要》
 我々は極少数で活動しています。活動内容は、平たく言えばカタルシスを求めることです。懺悔をすることです。闇を晴らすことです。リハビリテーションです。
《DG規約》
@ 過去に大切な女性と死別した方。
A 秘密厳守
B 定例会への継続的な参加
以上のことに該当し、遵守できる方はドッグ迄メールいただければと思います。なお、運営費は主催者であるドッグが全額負担いたします。
 まともな精神状態だったならばメールなんて絶対にしないであろう荒唐無稽な内容だ。普通に考えればどうみても胡散臭く、ネット詐欺のやり口だと思うはずだ。しかし、「過去に大切な女性と死別した」という項目。それはその時の僕にあまりに当てはまっていた。二ヶ月前、僕は恋人を失っていた。恋人は自ら命を絶った。真夜中に大学の広場にある大きな時計にロープをかけてくびれ死んでいた。もちろん学校は大騒ぎで、一週間ほど休校になった。僕は警察に事情聴取された。恋人は遺書を残さなかった。だから警察は可能性として僕を疑った。仕方のないことだ。でも、死んだ理由を聞きたいのは僕で、見ず知らずの刑事が僕に質問するのは滑稽でしかなかった。僕も恋人もありふれた大学生だった。記号のように服を着て、記号のように講義に出席し、記号のように遊んだ。それで充分に楽しかった。怒り、泣き、笑い、セックスをした。どこにも死の匂いなんて漂っていないはずだった。僕は恋人の葬式に出席するため滋賀まで行った。そして自分のアパートに帰ってくると、もう部屋を出る気力は失せていた。毎日、毎日パソコンの液晶ディスプレイを眺めて暮らした。映し出されるカラフルな写真や動画。椅子やテーブルの上の煙草、部屋の隅のホコリ。全て一様に見えた。その時間の連続の中で僕はDGを知った。そう考えるしかない。事実ここ二ヶ月間の記憶が曖昧なのだから。いつ寝て、何を食べたのかまったく覚えていない。そして、今僕はDGの定例会の会場である山荘にいる。現実感なんて元からない。それはパソコンのアドべンチャーゲームのようだ。僕がこの扉を開け、向こう側へ行かない限りゲームは始まらないだろう。
「失礼します・・・」
そう言って僕はドアノブをゆっくりと回した。

§

 大きな部屋だった。部屋の中には男が三人、女が一人椅子に座って円を作っていた。円卓は隅の方へとよけてある。全員が同時に会釈し、僕も入り口に立ったままそれに習った。真正面には混じりけのない美しい白髪の男が座っていた。眼鏡をかけた白いチョークのような男。顔の表情筋だけで笑っているのではないかというような笑みを携えた小太りの男。雑誌のモデルにもこれほどの顔立ちを持った顔はいないだろうとさえ思われる女。四人が僕に視線を注ぐ。白髪の男は五十を過ぎているように見える。おそらくこの男がドッグなのだろう。直感的にそう思った。ドックと思われる男以外の二人の男は、ともに三十代に見え、女ばかりが二十代に見えた。その女が僕に椅子をすすめた。椅子にかけた手もやはり美しかった。手だけの女優がいると聞くが、この女の手はそんなスペシャリストよりも人を魅了するような気がした。僕は一礼しながら椅子に座った。内装はいたってシンプルで、ソファ一つと29型ほどの大きさのテレビ、それに大きなシングルのベッドがあるだけだ。誰も口を開かず、ただドッグであろう男を見ている。僕はただ待つことにした。とても率先して言葉を発せられるような空気ではなった。口を開いた途端喉が焼け爛れてしまいそうだ。
「全員が揃いました。本日は新しい仲間が加わります。先ずはお互いに自己紹介しましょう」
低く、よく響く声で白髪の男が話し始めた。
「私がDGを主催しています、ドッグこと楠井です。仕事は輸出入、まあ貿易関係の会社を経営しています」
ドッグが深く頭を下げると、皆一斉に拍手をし始めた。僕はなんだか呆気にとられたまま同じように手を叩いた。拍手が止むと眼鏡の男が立ち上がり、人差し指と親指とで眼鏡を直すと自己紹介を始めた。
「梶です。医者をしています。専門は脳外科です」
軽く頭を下げる。皆拍手。梶はグレーのスーツが着心地悪そうに肩を動かし、座る。それから僕の横にいた笑顔の男がゆっくりと立ち上がった。
「三沢といいます。仕事は、簡単に言えば自営業ですね。よろしくお願いしますです」
自己紹介から礼を終え席につくまで、三沢の笑顔は変わらなかった。一人だけ時期外れの半袖の緑色をしたポロシャツを着て、寒そうでもない。その恰幅のいい身体を見ればそれも頷けた。ポロシャツの腹の部分は大きく膨らんでいた。僕は女の方へと視線を移す。もう、女は立ち上がっていたのだが、立ち上がるとその背の高さに驚いた。座っている時はさほど背が高いという印象はなかったのだが、立ち上がった女はゆうに175センチはあった。薄いピンクベージュ色をしたパンツスーツはその長い足を強調していた。
「日比野です。イタリアンレストランを経営しております。よろしくお願いします」
僕以外の全員が自己紹介を終えた。一礼と拍手を挟みながら。僕の番だ。
「そうそう、本名は名乗らなくて結構ですよ。私とメールでやり取りした時に使った名前で自己紹介してください。初参加の方はニックネームで呼ぶことにしているので」
僕が立ち上がろうとしたときにドックがそう言った。DGには細かなルールと秩序があるらしい。
「シンと呼んでください。大学生です。どうぞよろしくお願いします」
ルールにならい一礼。そして拍手が起こると思った。しかし、誰も手を叩かず、席を立ち僕に握手を求めてきた。梶と、三沢と、日比野とそれぞれ握手を交わし、最後にドッグの皺のある大きな手と握手を交わした。
「シンって言う名前は、罪という意味のSinのことかな?」
椅子に座るとすぐに梶が僕に問う。イエスの意味で頷く。
「随分と凝った名前だね。僕なんか学がないから、名字ほとんどそのままに、『サワ』って名乗っていたからね」
三沢がにやけた表情で言う。ただ、にやけていた。表情筋がつくったお面でしかない、そんな表情なのだ。
「さて、これで自己紹介も終わりました。会の具体的な活動、我々は〈礼拝〉なんて呼んでいますが、それは夕食の後で行ないます。食事までの間各自部屋で休憩ということになります。また、自由に部屋を行き来し、親交を深めてください」
僕にだけ言っているのか、皆に言っているのかドッグは慣れた口調でこの後の流れを説明し、メンバーそれぞれに鍵を渡した。僕以外の全員は鍵を渡されると入り口から静かに出て行ってしまった。
 僕は鍵を持ったまま、ふたたび椅子に座った。ドッグも当たり前のように椅子に座った。そして、上品なツイードのジャケットの内ポケットから煙草とマッチを取り出した。僕にすすめるような仕草を見せたが、僕は煙草が吸えないので断わるように手を振った。見たことがない包装の煙草だ。マッチを擦り、咥えていた茶色の煙草に火を点けた。旨そうに煙を吸い込み、ゆっくりと吐いた。甘い、煙草らしくもないいい香りがした。二人とも黙っていた。ドッグは煙草を吸い続け、僕は自分の手の甲を見つめていた。
「・・・あらためて、DGへようこそ」
煙草を灰皿に押し付けるように消しながらドッグが口を開いた。黙って頭を下げる。顔を上げて
ドッグを見る。見れば見るほど白髪は美しいまでに真っ白だ。浅黒い肌とは対照的で、いやでも目を引くのだ。顔の皺の数は多くはないのだけれど、一つ一つが深く刻まれていた。
「どうぞ、食事までゆっくりと過してください。私は一眠りしますので」
そう言うと、ドッグは立ち上がりベッドへ向かって歩きだした。「では、失礼します」と形式的な挨拶をして、ドアへと向かう。ドアのまで振り向き一礼すると、ドッグはすでにシーツを被って寝ていた。

§

 ドッグの部屋を出た僕はとりあえず自分の部屋へ行くしかなかった。廊下は相変わらずアンバランスで、ゆっくりと歩いているだけでも体が重くなってくるようだった。廊下には間に合わせのようにカーペットが敷いてある。さっき歩いてきた時は気にも留めなかったが、立派なトルコ絨毯だ。本で見たことはあったが、実際に自分がその上を歩くのは不思議な気持ちだった。ますます、この山荘は統一感がないと思った。僕の部屋は鍵の名前と照らし合わせるまでもなく、一番階段に近い朝霧の間だった。僕がフロントに置きっ放しにした荷物が部屋の前に置いてある。おそらく、あの背の低い男が運んでくれたのだろう。鍵を差し込み、回すとほとんど金属音もせず、開いたかどうか分からないほどだった。しかし、戸は静かに滑って横に開いた。部屋の中はいたってシンプルな洋室だった。窓のカーテンは閉まっていたが、薄いカーテンのせいか部屋は薄明るい。廊下とは違ってシンプルな淡いグレーのカーペット敷きで、ベッドと簡単な収納棚があった。ホテルとは違って内風呂やトイレなどはなく、ただ寝るためだけにあるような部屋だ。テレビもなく、ベッドの脇に目覚し時計と電話があるくらいで、他に電化製品らしきものは見当たらなかった。とりあえず持ってきたリュックを収納棚に入れ、ベッドに横になった。いったい僕はなんでここにいるのだろう?単純に自分のしていることがなんなのかよく分からなくなってきた。とにかく日常から抜け出たかった。かといってここまで非日常では平衡感覚を狂わせる。僕以外の三人の会員。それぞれ職業もばらばらだし、彼らの普段の生活が全く想像できなかった。医者、自営業、レストラン経営。それぞれが裕福で、社会的にもしっかりとした足場のある人間であることは容易にわかる。分からないのは僕のような大学生が参加できる会になんでそんな人たちが参加しているのか。もちろん会の趣旨通り、各々が大切な恋人を失ったのだろう。カーテンを開けて外の景色を眺めようかとも思ったが、体がだるくてベッドから動きたくもなかった。ドッグの言ったように挨拶をして回り、少し話してみるべきかもしれない。だが、今すぐに他のメンバーの部屋を回るにはいささか気分も身体も重いようだった。
 自殺した彼女の名前。いくら考えても思い出せない。馬鹿馬鹿しいことだが、実際に僕は彼女の自殺を知った後、彼女の名前を忘れた。意識的に忘れようとか、そんな誤魔化しではない。本当に、ただ彼女の名前だけを、忘れたのだ。だから、時々思い出そうと試みる。彼女が死んでから何回も。でも、それは射精を迎えない自慰行為のようなもので、ただ気持ちが悪かった。共通の友人に聞けば済むことだし、携帯のアドレスを見てもいいはずだった。でも、携帯の彼女のアドレスも、大学の友人たちのアドレスも全てデリートされていた。おそらく僕自身がやったのだろう。覚えていないけれど、それしか考えられないのだから。外に出る気分にはなれなかったし、おそらく文字としてデータとして彼女の名前をインプットしても今の僕には単なる記号の配列でしかないだろう。自分で思い出さなければ何も意味がないのだ。ベッドに仰向けになって天井を見ていても、彼女の名前の欠片さえ見つからない。彼女の死体を見つけたのは警備の男性だったらしいが、警察に電話をしている間に早朝の部活動に来ていた何人かの生徒が見てしまったと聞いた。その中に、彼女の友人の女の子がいた。僕も顔見知りであったし、二三度は話をしたこともある子だった。前歯に金歯を被せていて、それが笑うたびに目立ったのを覚えている。その子が僕に彼女の死を知らせてくれたのだ。電話に出て五分くらいは、女の子の前歯の金歯が噛み合わさるカチッカチッと言う音しか聴こえなかった。その後に女の子がどもりながら喋った内容は、彼女が死んだということ以外内容なんて覚えていない。ただ、女の子の金歯のなる音だけが耳に染み付いている。カチッカチッ。部屋に備え付けの目覚し時計の秒針。その進む音は、女の子の金歯の音にそっくりだ。カチッカチッ。淡々と続く音。それは、僕を暗闇へ向かって導いていった。
 
 ごく微小な揺れとも思えるような唸り声が聞こえた気がして目を覚ました。時計を見ると三十分ほど眠っていたようだった。唸り声は既に聞こえなくなっていた。悪い夢の尻尾だったのだろうか。時計の秒針の音はもう気にならないけれど眠りを破った唸り声はまだ耳の奥に居座っている。妙な身体の重さは幾分良くなっていた。夕食前に挨拶をして回らなければならない。頭を強く振って、無理やりに意識を覚醒させる。廊下に出て、入り口の鍵を閉めた。廊下はやっぱりアンバランスで、また身体が重くなったような気がしたが、もう一度頭を振って鍵をポケットに突っ込んだ。ドッグの部屋へと続く廊下を挟んで、六つの部屋があった。一通り部屋の名前を見て回ることにした。誰がどの部屋にいるかはもちろん知らないし、背の低い男に確かめるのも億劫だった。僕の部屋の真向かいは椛で、隣が椎の葉という名前だった。斜め向かいが万寿菊、ドッグの部屋に近い部屋は山風だ。もう一つは物置なのか、空き部屋なのか札には何も書かれていない。籤を引くわけでもないのだから、自分の隣の部屋から順番にノックしていくことにした。そこで応じた人物と会話すればいいだろう。どうやら山荘はDGの貸切のようであるから、部屋から出てくるのは梶、三沢、日比野の誰かでしかない。ただ、何を話すべきかと言うのが一番問題だった。僕は話すことが得意ではない。それは昔からだ。まあ、なるようになるだろう。僕らしくもない楽天的な考えに自分で戸惑いながら、椛の間の戸をノックした。
中から顔を出したのは梶だった。眼鏡をかけていないので、その柔和なこに驚いた。金縁の細いフレームというのは、人を気難しそうに見せるようだ。グレーのスーツの上着は脱ぎ、ワイシャツになっていて、ネクタイも外している。それでも相変わらず肩のあたりに窮屈さを感じているようなそぶりだった。ワイシャツのサイズが合っていないのか、単に癖なのかとにかくその仕草が梶を外見以上に神経質そうに見せているのだ。でも、部屋で休んでいる、今目の前にいる梶は柔和な中年の男性だった。
「ああ、シン君か。わざわざ挨拶に?」
「はい、一応ご挨拶がてら・・・」
梶は、「それはそれは」と言いながら僕を部屋の中に通した。部屋のつくりはやはり僕の部屋と同じだった。梶はクッションを敷き、自分はベッドに腰掛けた。
「いや、君のことはすごく興味深く思っていたんだよ。ドッグから、大学生だとは聞いていたのでね。しかも、なにやら文系らしいね」
鼻水が気になるのか、しきりにティッシュで鼻を抑えながら梶が言った。
「はい、文学なんて意味のないものを専攻しています」
「いやいや、僕は外科医だけどね、本当は小説家になりたかったんですよ。でも、父親も祖父も医者でね、許すはずがない。東大理三のお決まりコースですよ。いや、小説はいいよね。僕は今でも時間があれば読むんだ。今日もね東京からの電車の中で読みながら来たんだ。僕は古い文学が好きでね。今日は、そうそう江戸川乱歩の『蟲』を含んだ短編集を読みながら来たんだよ。まあ、医者の視点で見るとあの死体防腐処理は甘いけどねえ・・・」
細い体からは想像もつかないような大声で梶は笑った。
「僕は、主に大正の作家を研究しています。梶さんは、今眼鏡を外してらっしゃいますけど、さっきよく僕って分かりましたね」
「ああ、あの眼鏡はほとんど度なんて入っていないんだよ。仮面だよ、仮面。君も持っているだろう?」
僕には梶の言うことが咄嗟には理解できなかった。
「まあ、ほら自分の本性を隠すアイテムとしてさ。もちろん物体だけではなくて、笑顔とか性格とか、演じるために必要なもの全てだよ。君は若いから、まだあまりピンとはこないかもしれないけれどねえ」
そう言って、また声高らかに笑う。確かに、第一印象の梶が仮面を被った状態ならば、今の梶はまた違った梶だ。もちろん、梶の言う仮面は何枚も存在するのだろう。
「人間、仮面を被って生きているから、他人のことなんてそうそうにわからないよね。だから、君の持つsinだって簡単には人には見えない。まあ、覗く気はないけどね」
今度は笑わずに、僕の目を見る。
「ん、まあこの後他の部屋を回るのだろうけれど、みんなの仮面をよく監察することだね。興味深いと思うよ。また、食事の時に会いましょう」
僕は、ただ頷くしかなかった。部屋の入り口まで来ると、梶は僕の肩に手を置いた。
「君は今日もしかすると、仮面の外し方というものを知ることになるかもしれない」
そう言うと、そのままベッドに倒れ込むように横になった。僕は梶の言葉がおぼろげにこだまする頭を振りながら部屋を出た。
 酷い疲労感だった。この後、三沢とも日比野とも会話しなければならないのだ。他人との会話がこんなにも疲れるとは思わなかった。それは、僕がしばらく人と触れていなかったということもあるだろう。ただそれ以上に梶の、おそらく残りの二人も、持つ吸引力。人の生命力を吸い取るような雰囲気。そのせいではないだろうか。ドッグもそうだ。彼らが持つ暗闇のような、気味が悪くても足を踏み入れてしまうような雰囲気は酷く僕を疲れさせる。軽い溜息をついて、廊下を眺める。トルコ絨毯の模様、それは戦争の絵だ。槍が人馬を貫く、闘いの絵だ。歩くたびに僅かに足が沈む、肉厚の上質な絨毯。でも、海辺を裸足であるくような不安さはいただけない。椎の葉の間。その前に立つ。三沢か、日比野かどちらでも構わない。僕の身体が、心が疲労するだけのことだ。半ば乱暴と思える強さで戸を叩く。握りこぶしが骨ばった音を出した。

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