リバーズ・エッジ論
《はじめに》
この作品は私の敬愛する岡崎京子さんの作品の中でも最高峰に位置する作品です。この作品と同質の小説が書ければとも思います。今回は『リバーズ・エッジ』の精読を通し、そこにある人間の抱える蠢きのようなものを見出せればと思います。作品中の登場人物の言動や映像展開にも触れます。サブカルチャーと人は言いますが。サブカルチャーの中に生きる現代人の「病」はサブカルチャーに証人になってもらわなければならないでしょう。
【追記】
この作品のデータを載せておきます。まだ読んでなくて、この論を読もうと思ったけれど、やはり読んでからにしようとか、論を読んでから読みたくなることもあるでしょうから。
「リバーズ・エッジ」書誌情報
著者●岡崎京子
発行●宝島社
初版●1994年6月20日
ISBN●4-7966-0825-7
初出●月刊CUTIE1993年3月号〜1994年4月号連載
根底に流れているものを簡単に、あまりに簡単に述べるならば「タナトス」の亜種であろう。誰しもが日常の中に不可侵の絶望を所有していて、手を差し入れることが不可能なことを知りつつ、もがく。もがいている姿をカムフラージュするために悦楽的な行為を上塗りする。しかし、人々一般が所有する絶望はタナトスを発生させる。しかし、大多数がタナトスを有形化などしない。あくまでも「死の気体」として、頭上や自分の真下に隠し持っている。私がなぜ「亜種」と言ったのか、それは『リバーズ・エッジ』中の登場人物がタナトスの有形化に代替物を用いているからである。もちろん「タナトスの亜種」を有したのは若草ハルナ・山田一郎・吉川こずえの三人である。もっとも現代のタナトスはすでに亜種である可能性も大きい。本来フロイトの提唱したタナトスはあくまで自己破壊が主な衝動である。しかし、現代のタナトスは他者の破壊に主な衝動が向くことが多いように思う。そういう点でいかにも現代的なタナトスを抱えている登場人物が田島カンナ・観音崎・小山ルミ・小山ルミの姉であろう。これらの二つのタナトスによる分類から読み進めたい。
まず、若草ハルナ・山田一郎・吉川こずえらの有するタナトスの亜種、その有形化の代替物は河原の死体である。自らが手を下した死体ではなく、河原に放置された名も無い、無関係な死体。そこから得たものは何か?ということが問題である。作品中で山田一郎は若草ハルナに死体を見せた時に「あった、これが僕の宝物だよ」と言っている。さらに、「何かこの死体を見るとほっとするんだ」「自分が生きているか死んでいるかいつも分からないでいるけど」「この死体を見ると勇気が出るんだ」とも言っている。自己存在の不確定さというものを認識している人間は少ない。まして、自己存在の不確定さを打ち消せる「何か」を持っている人間は少ない。この時点で、山田一郎と吉川こずえは貴重な、まさに「宝物」を有していることになる。言い換えれば偶像としてのタナトスを満たしてくれる代替物を有している。そう考えると、若草ハルナは少なくともこの時点では二人とは違った捉え方をしている。それは当然、二人ほど「死の気体」が頭上にも足下にも充満していなかったからだ。それは吉川こずえに「無関係」と言う言葉で言い表される。「大丈夫よ あの人は何でも関係ないんだもん そうでしょ? だからあたし達にも平気だったんだもん」
映像(漫画の一連の絵を映像と表現したいと思う)としては小山ルミと観音崎がコカインを吸入し、セックスに耽るシーンが間に挟まれながら展開していく。これは、山田が死体を発見し、死体を見にくることでタナトスを解消している前方向への行為を行なっているのに対し、ルミと観音崎の二人は快楽によってタナトスを誤魔化しているに過ぎない。その対比である。タナトスを極端に快楽で誤魔化していれば、いずれ頭上も足下も「死の気体」で充満し破裂する時が来る。しかし、それに気がつかずに、まして気がついていても多くの人は目をそらす以外にないのだろう。そして、自分の一生が終わる間に破裂しないことを祈るのみなのである。
山田一郎の抱えるもの、それは学校でいじめられることがその核ではない。山田は同性愛者であり、好きな男性が学校にいる。しかし、それは100%成就しない恋。それを誤魔化すために仮の恋人・田島カンナがいて、夜にはゲイの男性を相手に男娼となる。そんな自分に対するタナトス。勿論山田は自傷行為癖もなければ、今までの人生において自己を死へと誘わなかった。吉川こずえはどうだろう。彼女は芸能人である。その体形を維持するために食事制限をされ、高校へ行き、大学へ行くという普通の人生を歩めない。その反動で節食障害を抱えている。食べ物を貪り、その後吐くという行為による逃避。山田と吉川の逃避は作品中の映像に端的に現れている。山田が男娼として客のペニスを咥えようとする映像から、吉川がピザを頬張るシーンへと移行する箇所だ。
吉川は死体を見つけたときの気分をこう語る。「あたしはね"ザマアミロ"って思った」「世の中みんなキレイぶってステキぶって楽しぶってるけどざけんじゃねえよって」「ざけんじゃねえよいいかげんにしろあたしにも無いけどあんたらにも逃げ道ないぞザマアミロって」。そして、一時の間の後「なーんてね」と言った。そう、吉川こずえは「逃げ道がない」ことを認識した。その時点で彼女のタナトスは浄化される。そいて気付く、自ら選択しなくても「死」は発生する、と。そして、あくまでそんな時代に生きる全てに対しての「なーんてね」である。
山田一郎はもう一つの代替物を有する。子猫。この子猫はハルナとの共有物である。死体に関する捉え方は山田と吉川が一致し、子猫に関しては山田とハルナとが一致する。厳密に言えば山田と吉川の死体から得るものは違う。山田は死体によってタナトスの浄化は得ない。子猫や思い人である男子生徒によってカタルシスを得る。タナトスの代替物は「死」の正反対に位置するものであっても構わないのではないだろうか。それは生と死が表裏一体なのではないか?という問いとシンクロする。結局子猫は吉川こずえにサインを断られた男子生徒のうさばらしによって損なわれる。その肉塊の入ったビニール袋の中身を吉川は「おもしろいもの」と言う。死体へと変化した子猫に対し吉川は興味を持った。つまり吉川は「死」に強いタナトスの浄化を見出すのである(このことは田島カンナの焼死体を見たときの吉川の表情からも分かる)。それを見せられ、ハルナは嘔吐し大泣きする。無関係な人間の死体に吐き気もなにも感じなくても、よく知っている子猫の肉塊には吐き、号泣する。「あたしは吐いたあと泣いた ものすごく泣いた ママとパパが別れるときよりもおじいちゃんとおばあちゃんが死んじゃった時よりも 吐くように泣いた あのこねこ達はもうこの世にはいないのだ」とハルナは思う。そして子猫の死によって一つのタナトスの形を見る。「電波のように空気の中に見えない何かが飛びかっている 愛やら 悪意やら 諦めやら 執着やら 目に見えない感情の念波」としてのタナトス。山田は子猫の死を知らないのだが、そのかわりに好きな男子生徒に彼女ができたことを知る。知らなければいつまでも山田の中に子猫は存在し、カタルシスを与え続ける。知ることは絶望をある程度具現化する。
「死体」は三人を繋いだが、「子猫」は三人の差異を浮き彫りにした.
田島カンナ・観音崎・小山ルミ・小山ルミの姉、この四人の抱えるタナトスは有形化してしまった。
田島カンナは自己の欲求の末、ハルナの家に放火し、焼死体となった。焼死体となることは望むと望まざるに無関係にタナトスが有形化した結果である。山田は「でも僕は生きている時の田島さんより死んでしまった田島さんの方が好きだ ずっとずっと好きだよ」と言う。カンナはタナトスに誘われ、死と同化したことによって自分の欲求が満たされた。「皮肉な話」という言葉で片付くのかもしれないが、タナトスの向こう側は自分では見ることはできないのである。
観音崎は自分の無力さを否定し続け、逃避し続ける人間である。その結果、弱いものいじめをして、麻薬へ手を出し、ハルナの親友ルミと肉体関係を持った。ルミに「誰もあなたのことなんか好きじゃない」と罵倒されたことによって、ルミの首を締めた。場所が「死体」のあった河原というのも一つの誘いかもしれない。これもまた望まなくとも訪れたタナトスの有形化である。他者へと向かうタナトスはカタルシスなどもたらさない。あくまでも自己の崩壊のみを生む。結果として自己を破壊するのである。観音崎は全ての不安をハルナとのセックスにぶつけ、極限の場所に至っても逃避しようとする。しかし、今までと違うのはそれが逃げ切れぬ逃避であることの確認だということである。
小山ルミは自己に死を吸い寄せる女である。自分本位の生き方ゆえ感じる虚無感を背負いながら、タナトスを有し、死を呼び寄せる。ルミのタナトスにおいて他者に対して感じた死は、自分の子宮に宿った父も分からぬ赤子の死である。そして、実質の死のみが死ではない。タナトスの向こう側にあるもの全てが「死」ではないか。ルミは観音崎に首を締められるも一命を取りとめ、家に帰る。家では自分の部屋に勝手に入って日記を見る姉。妊娠したことを罵倒され、逆に罵詈雑言を姉に浴びせ、刺される。「ただ血が沢山流れた 血と一緒にルミちんの赤ちゃんも流れた」とハルナは思い返すわけであるが、堕胎手術をせずともルミの望んだタナトスは有形化されたのである。そして、ルミは精神が錯乱することで「死」を手に入れる。
ルミの姉は俗に言う「引き篭り」である。自分の容姿を醜く感じ、過食気味になり、自己の欲求の世界に閉じこもる。その世界から外を覗ける穴が妹の日記だった。大いなる嫉妬が、自己の醜さも映し出したわけである。そして、妹に罵倒され、その腹をナイフで刺し、自分の手首を切るわけであるが、これはタナトスに誘われたものである。
どの人間も抱える「蠢き」のような苦しみ。その程度の大小に格段の差異はないように思う。誰もが抱えながら、辛さを顔に出さずすまし顔で生きる。それが解消されることはないだろう。あくまでも誤魔化して、上塗りして、「死の気体」が破裂しないことを祈る。
「本当にそうだ あたし達は何かをかくすためにお喋りをしてた ずっと 何かを言わないですますために えんえんと放課後お喋りをしていたのだ」
若草ハルナは山田一郎・吉川こずえと「死体」と「子猫」を共有することで、自分のしている無意識の誤魔化しに気付いた。多くの言葉に隠れた無言の罪を知った。これはハルナのタナトスが誘ったものであろう。
クリーク・1995年4/20号 著者解剖図鑑5『リバーズ・エッジ』より。
「そういう意味で、私は世界が終わってしまうといった世紀末の終末感より、むしろ"世界が終わらないこと"のほうが怖い。終わらない、この日常をジタバタ生きていくことの方が恐ろしい」
「長生きすることを考えると、16歳でも8歳でも52歳でも、生きることの退屈さは変わらない。実際、私が思うのは、絶望って成熟の度合いによって深さが違うわけでもない、ということ。たとえば8歳の子がお弁当を食べて唐揚げだと思ったのがチクワだったときの絶望や、『明日はいていくからタンスから出しておいてね』とお母さんにお願いしていたスカートがしわくちゃだ、といった時の絶望を思い出すと、今感じるような絶望とあまり変わらないでしょ?」
岡崎京子自身による作品世界に対するインタビューの声である。ここに集約されている部分が大きくあるように思う。結局、わたし達も含めて世の中に生きる人間は「終わらない、日常」の中で「普遍の絶望」を感じながら生きているのである。それを認識するかどうか、自分の頭上や足下にあることを知ってもなお歩いていくかということが重要なのである。
ラストシーン。岡崎京子の持つ朝のイメージで物語りは終わる。
「涙がぽたぽたと河に落ちていった うつむいて山田君に顔を見られないよう声を殺して山田君に泣き声を聞かれないよう こねこが死んだ時大声を出して吐くように泣いた あの時は超悲しかったけど気持ちよかった 今は苦しい ただ胸が苦しい」
このときハルナはタナトスの向こう側にある浄化を手に入れた。そして、「無関係」でなくなった。普遍の絶望があるように、普遍の希望もあることを認識したのである。
(了)
《おわりに》
まだまだ書いてないことが沢山あります。だって大好きな作品ですからね。だからまた機会があれば発表したいと思います。ぜひこの『リバーズ・エッジ』を読んだことがあって、この論も読んだ方は作品について語り合いましょう。駄目出し、私はこう思うという意見も大歓迎です。なんなら、BBSに『リバーズ・エッジ』のスレッド的な書き込みしてもらってもOKです。これからも天上天下唯我独論で色々な小説・漫画を論じていくので、一緒に素晴らしい作品たちを味わいましょう。