林檎のタルト

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 かさぶたが剥がれてしまった。熟れたぐみの実をイメージさせるような体液がアスファルトに落ちる。ナイフで切った傷が痒くて、男のわりに長い爪で引っ掻いたら簡単に損なわれた。痛くはないので、そのまま指先から垂れるままにした。今日もスーパーのフルーツ売り場から林檎を買ってきた。指の傷は馴れない料理のせいで出来た。林檎の皮を剥くのは案外難しい。カナエと別れて一年以上になるのだけれど、思い出すことは殆どなかった。同じ街に住んでいても会うこともなく、感傷もあまり感じなかった。でも、一週間前なぜか急に、彼女がよく作ってくれた林檎のタルトが食べたくなった。タルトの味は鮮明に覚えているのだけれど、彼女とのキスの感触は忘れてしまっている。だから、先ずはタルトを再現してみようと思った。ここ一週間、仕事が終わると毎日林檎のタルトを焼くのだけれど、彼女が作ったものに近づかない。もとより完璧に再現しようとは思っていなかった。でも、あまりに違うのは困りものだ。
アパートに着くと、血は止まっていた。テーブルの上に紙袋を置く。なんとなくすぐに取り掛かる気になれず、林檎を一つ布で拭いて齧りついた。甘くて美味しい林檎だ。甘い?普通に考えれば林檎が甘いのは当たり前なのだ。でも、今ここに違和感がある。そうだ、彼女がタルトを作る時に摘み食いした林檎のスライスは甘みなんて殆どない、酸味が強く渋みもうっすらと感じる林檎だった。たしか、紅玉という林檎だと言っていたような気がする。
「アップルパイにしろ、タルトにしろこの林檎じゃなきゃダメなのよ」
彼女の声が耳の中に響いた。神経質そうな声質のくせにテンポの遅い、懐かしい声。僕は財布だけ持って、ブーツの紐も結ばずにスーパーへと向かった。

 紙袋いっぱいの紅玉はとても良い香りで、今度こそ上手く行きそうな気がした。鍋を火に掛けてバターを溶かし、そこに林檎とグラニュー糖を加える。鍋を揺らしながら全体にまぶしつけ、中火で色が変わる程度まで煮詰める。そこにレモン汁を掛けておく。空焼きしたタルト生地にアーモンドクリームを流し込み、煮た林檎を並べる。そして、170度のオーブンで約40分焼く。それが彼女のレシピだった。僕は忠実に再現して、オーブンにタルトを入れた。後は四十分待つばかりだ。
 キッチンのイスに腰掛けていると退屈だったので、ポストに手紙が入っていないか確認する。チラシが何枚かと携帯電話の請求書、そして、カナエからの葉書。彼女はとても律儀で、別れたあとも時々季節の挨拶を交えた葉書をくれた。大学を卒業して僕は経理の仕事を見つけ、彼女は外食産業のOLになった。いつも葉書は飾り気のないシンプルな絵葉書だった。そこに繊細な少し丸文字ぎみの字で、挨拶らしい挨拶だけが書いてあるのが常だった。「季節の変わり目でもないのに」と思いながら見ると、夕暮れ時の風景を撮った写真の絵葉書に珍しく長めの文章が書いてあった。
〈この度、会社の同僚と結婚することになりました。相手は二つ上の営業マンです。特にこれといって長所も短所も見当たらない人です。でも、とりあえずはやさしいんです。態度もそうだけど、私にとって柔らかい布団のような存在です。式は来週の土曜日、街の教会で行ないます。もちろん出席の確認の葉書じゃありません。でも、あなたには知らせなくてはいけないと思いました。気が向いたら、お昼頃に耳を澄ましてください。教会の鐘が鳴ると思います〉
タルトが焼きあがる間何度も繰り返し読んだ。オーブンが時間通りに焼きあがりを機械音で知らせる。葉書をテーブルに置いて、ミトンを手にはめた。
紅玉を使ったタルトは、不自然な甘みの重なりが消えとても美味しかった。でも、やっぱり彼女が作ったものとは違った。そのせいなのか、彼女の顔は未だにぼやけている。僕は物を捨てるのが嫌いだから、彼女の写真は今でもある。写真を見れば「ああ、こういう顔だったなあ」と思うけれど、眼を閉じるとすぐにぼやける。眼を開けてもう一度写真を見ると、今度は写真もぼやけて見えた。

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 土曜日は梅雨の晴れ間と重なって、雲ひとつないほどの快晴だった。僕は一張羅のプラダのスーツにサングラス、リボンがついた赤ワインの瓶を左手に持って教会の前に立っていた。もう式は始まっているらしく、教会の扉は閉まっていた。仰々しいくらいに大きい扉は、うるさ過ぎるほどに装飾されている。風は静かに吹いていて、でもほんの少し湿っぽかった。もしかすると天気は崩れるかもしれない。茫漠とした空を眺めていると、讃美歌が聞こえてきた。この歌が終われば、誓約式や結婚指輪の交換が行なわれて、二人は接吻するのだろう。「卒業」のダスティン・ホフマンなら、窓ガラスを叩きながら彼女の名前を呼ぶのだろうけれど、僕はそんなことはしない。卒業のヒロインはエレンって言ったっけ?
 思えば、彼女との思い出というのはとても楽しいものばかりのような気がする。大学生の間、ほとんど四年間を一緒に過ごした。休日はいつも映画を見ていた。アカデミー受賞作のような大作じゃなくて、小規模に公開された映画ばかりを選んで見ていた。スクリーンに二人の将来も映そうとしていた。なんで別れたのかいまいち思い出せない。でも、彼女が最後に「憔悴」という言葉を使ったのだけは覚えている。
 教会の入り口から少し離れた自販機にもたれかかりながら式が終わるのを待った。この後、ライスシャワーやフラワーシャワーが宙を舞い、カナエはブーケを投げるのだろう。そんなことを考えているうちに白いオープンカーが教会の前に停められた。さすがにマフラーの部分に空き缶なんてついていなかったけれど、どこまでもロマンティックなお決まりパターンには違いなかった。拍手の音が聴こえ始めたかと思うと、係員らしい礼服の男が扉に手をかけた。先に、ぞろぞろと参列者たちがヴァージンロードを踏まないように階段まで出てきて並ぶ。全員が、他人の幸福のおすそ分けにすがるのに夢中で僕には気がつかないようだ。メンデルス・ゾーンの結婚行進曲ではなく、讃美歌と思われるメロディが流れ始める。ただれた舌のように赤い絨毯が長いヴァージンロードを作っている。その上をカナエと新郎がゆっくりと歩いてくる。ああ、カナエの顔はこんな顔だったのか。あの頃と変わらないようでもあるし、僕が街であっても気付かないほど綺麗になった気もする。
参列者は猿の玩具がシンバルを叩くように、ひたすら拍手をして二人を迎える。参列者の女の子の何人かは、ブーケを受け取ろうと既に身構えている。ライスシャワー、フラワーシャワーがカナエと新郎の上へ降りそそぎ、二人は階段の途中で歩みを止めた。いよいよブーケトスが始まるらしい。カナエは無表情に近い微笑のまま、目を瞑った。そして両手に握っていたブーケを思いっきり空へと向かって放り投げた。女の子たちが奇声を発しながら、ヴァージンロードもお構い無しにブーケを追いかける。僕は、今が完璧なタイミングだと思った。教会の入り口近くまで走って出て行く。
「カナエ!」
名前を大声で呼ぶと、瞑っていた眼を開け、僕の方を見る。僕はポケットに入れておいた林檎を掴んで投げる。今さっき、ブーケを失ったカナエの両手にぴったりとおさまる。ナイスキャッチ。参列者はざわつき、「あの男はなんだ?」と口々に叫ぶ。カナエは林檎をしばらく見つめていたが、軽く頷くとそのまま齧りつく。酸っぱいというような表情を見せ、僕に向かって叫ぶ。
「ばーか」

 係員がこっちに向かって走ってきたので僕は大急ぎで逃げた。だから、その後の彼女の表情は見ることは出来なかった。ひたすら逃げて、係員を振り切り街の端の丘まで逃げてきた。汗でシャツはぐちゃぐちゃで、スーツも皺だらけになった。お祝いのワインも持ってきてしまった。喉が渇いてひりひりするのでワインのリボンを乱暴にほどく。安物だからコルクではなく、プラスティックの栓だったので指で開けることが出来た。そして、ぬるいワインを流し込む。空を見上げると、さっきまでの快晴が嘘のように曇り始めていた。丘の上から教会が見える。騒ぎは収まったのか、もう白いオープンカーは見えない。ワインはロゼに近いワインでやたらに甘く、気持ちが悪くなる。
 カナエは僕が投げた林檎を食べてしまった。あれは僕の精一杯のテロ行為だった。あの、林檎は手榴弾だった。彼女の結婚式を吹き飛ばすはずの・・・でも、所詮は病気がちな小説家の発想と変わらない。檸檬も林檎もやはり果物なんだ。
ポケットにはもう一つ林檎が入っている。予備の手榴弾だ。思い切って、僕も食べることにした。口の中が変なワインのせいで気持ちが悪い。口直しがしたい。ポケットから取り出した林檎は、何所かでぶつけたのか傷がついていた。構いやしない、と口へ運ぼうとすると雨が降り始めた。まだ火照りが収まらない体に冷たくて心地が良い。雨が林檎にもかかって、表面が洗い流される。そんな林檎に僕は大口で齧りつく。
「・・・やっぱり、酸っぱいや」

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