輪廻を這う

蛇と蛙はある日偶然、灰色のアスファルトの上で出会いました。蛇は立派な胴体をもち、その表面は濡れたように艶やかな青黒い鱗で覆われています。蛙は小さく折りたたんだような身体に翡翠のような、しかしその上に葛が薄っすらと張りついたような緑の皮膚を持っていました。二匹は明らかに異種族で、生態系においては捕食者と被捕食者でした。しかし、蛇はもう孤独に絶望していたのです。何の執着も常世には求めず、ただ道を這いまわっていたのです。ですから蛇は単純に蛙を異種とも思わず、弱々しく、されど明々と燃えている同じ生命体とだけ捉えたのです。ですから、威嚇もしなければ殺気も発しませんでした。蛙を縊り殺して丸呑みにしようとは思いません。蛙は冷たくない目を持った蛇に出会ったのは驚き以外の何物でもなかったのです。蛇が草むらへと散歩に行けば後に続き、木の根元で昼寝をすれば横で目を瞑ってじっとしていました。蛙もまた孤独を抱えていたのです。いや、ある意味では世間一般では強者とされている蛇以上の闇を心の奥に飼っていました。蛇はそのうちに、水辺に行くにも日向ぼっこをするにも蛙を誘うようになったのです。蛙は顔をしかめることもなく、満面の笑顔で蛇と連れ立って過しました。やがて蛙は蛇を兄のように父のように慕い始めました。猛々しく、恐れられ嫌われ者の異形でしかない蛇を、蛙は兄と呼び、父と呼んだのです。孤独であった蛇にとってこれほどまでに嬉しいことはありませんでした。たとえかりそめであっても自分を兄と、父と慕う存在がいるということが蛇を今まで味わったことのない充足感の中に引き入れたのです。蛙は蛇の冷え冷えとした、青黒く光る鱗にも平気で触れ、背中に乗りはしゃいでみせました。
しかし、その蛙は弱すぎたのです。身体も心も。蛇の眼には徐々に、でも確実に弱っていく蛙の姿が映りました。心の闇が身体をも蝕むのです。翡翠の如き皮膚は衰え、枯れたススキのような色が混じり始めました。蛇にはどうしようもありません。蛇に蛙の身体も精神も把握など出来なかったからです。蛇は度々蛙を見舞いました。死に際の生物が見せる、溶けかけの氷の表面のような眼で蛇を見つめながら蛙は言いました。「どうか、私を絞め殺してくれませんか」、と。蛇は頭を横に振りました。眩暈がするほどに何度もです。それでも、絞め殺してくれと繰り返し言うのです。言葉を宙に放るのです。生物に巻きつき、絞め殺すという行為は蛇にとって生得的な本能です。絶望からではなく、大切な存在として蛙を絞め殺す気にはなれない。それが蛇の思いでした。しかし、苦しそうにときおり自分の胸をかきむしりながら懇願する蛙の眼は溶け続ける氷でした。蛇は大きく一度溜息をつくと、蛙にゆっくりと巻きつきました。鱗が蛙の柔らかな皮膚に噛みつくように食い込み、赤く長い舌が喉のあたりを這いまわります。締め続けながら蛇は奇妙な感情を覚えました。昔、嬉々として行なっていた時とは違うもっと背徳的で甘美な感情です。でも、蛇に蛙を絞め殺すことなど出来ないのでした。蛙は気を失い、一時の眠りに落ちました。蛇は寝床に蛙を置くと、自分の住む穴へと帰りました。
それから蛇は蛙を見失いました。何処へ行っても蛙の姿はありませんでした。蛇は久しく見ぬ蛙の痩躯と顔を思い描き、その身体と心を案じ、深い穴の奥底で心をすり減らしました。ある日のことです、草むらの入り口で蛇は蛙と再会しました。蛙はだいぶ気分がすぐれたというような表情で、足早に駆け寄ってきました。その皮膚も再び美しき翡翠に戻っていました。蛙は蛇と会わぬ間のことをはしゃぎながら、嬉しそうに喋りました。蛙の仲間ができたのだといいます。つがいもできたのだといいます。丸い瞳をコロコロと動かしながら、楽しそうに話します。そんな話を聞いているうちに、蛇は失われたはずの衝動に襲われました。いや、以前蛙を締めた時に感じた背徳的な甘さが思い出されたのです。蛇は気がつけば蛙の眼前に赤い舌を伸ばし巻きつこうと身体を擡げていたのです。絞め殺し、頭から丸呑みにしてしまいたいと思ったのです。蛙はその時初めて、蛙らしい引き攣るような恐怖の表情に顔を歪めていました。そして後退り、地獄の牛頭鬼でも見るような眼で蛇を見るのでした。蛇はそんな蛙の顔と、自分の熟れきった苺のような舌を交互に見ました。そして、蛙の前から逃げるように去りました。蛇は自分の感情に混乱しました。自分の舌の赤さは初めて殺した、小さな兎の死ぬ間際の真っ赤な瞳が変化したものだと思いました。そして、蛙と蛇はやはり異種族であるのだと思ったのです。
蛇はそれから蛙には会わないようにしました。遠くから見ることは何度かありましたが、蛙はそのときは必ずといっていいほど仲間やつがいと一緒にいました。仲むつまじく、昼下がりを、夕暮れを過しているのです。そんな光景を見た後、蛇は涙など流れることのないはずの自分の眼が濡れたように感じました。蛇と蛙とは異種で、相容れないものであるのだ。たまたま偶然道で出会い、お互いの空白を埋めようとしただけなのだ。所詮かりそめに、兄だ父だと呼んだだけで最早蛙にとって自分は必要のない存在なのだ。今はただ不気味で冷ややかな眼を持ち、青黒く触れれば手が爛れそうな鱗を身に纏った異形の蛇でしかない。同じ蛙の仲間と、つがいと出会い、その皮膚は翡翠の粉をまぶしたように炯々と輝いてさえいる。蛇の側などにいても、絞め殺され丸呑みにされる恐怖だけがあって安息も何もない。だからもう一緒に草むらを散歩すること、その背中に乗ることなど思いさえしないのだ。すでに不必要な、見ると顔を顰めたくなるような廃棄物でしかない。なんとも馬鹿馬鹿しいことをしたものだ。そう、蛇は思いました。
蛇は一人で水辺に行きました。深い穴の底から水辺まで這って行くことは億劫でしたが、気が滅入ってしまってどうしようもなかったのです。水面には自分の姿が映ります。身体はだいぶ痩せたようでした。鱗も艶やかさがなくなり、所々剥がれていました。その鱗が剥がれ落ちるのを見て思うのでした。同じことの繰り返しだと。侵入してきた異物は、再び出ていくのだと。自分は毒蛇に生まれたかった。近づく異種全ての喉元に噛付き、その神経を狂わせる猛毒を注入したかった。そして、その生き物の狂い死ぬ姿を目に留めて生きていきたかった。そうすれば、この常世での自分の存在意義だってあるじゃないか。でも、今の自分は何だ。暗い穴の奥底で、女々しく流れもしない涙を流す真似をして震えているだけだ。いっそ、水面へと身を投げれば楽なおだろう。そうだ、もしかするとこれから先、自分は毒蛇になれるかもしれない。いや、毒蛇になろう。何かしら方法があるはずだ。蛇はそう思ったのでした。
蛇は水辺を離れ、這い始めました。ひび割れたアスファルトで擦れた腹から血が滲もうとも気にも留めません。いや、気付いてさえいないのかもしれません。蛇の眼には毒の出る牙が他の生物の喉元に突き刺さり、身悶えして死んでいく姿が映っているのです。蛇にとってそれは至高の空想でした。虚ろな眼でアスファルトの上を這うのです。ただ、蛇に今できることはひたすらに這うことだけなのです。

Exit