シルシ

 

 §1
 目覚まし時計のアラームもかけていないのにふと目が覚めることがある。今日はそんな日だ。時計を見れば九時を五分ばかり過ぎていた。大学生活も三年目となると起きるには早い時間だ。窓からの陽射しは強くて、部屋全体が熱で歪んでいるようだ。不思議と身体に汗をかいていない。喉も乾いていない。枕元にある煙草に手を伸ばすと、既に空になっていた。目の前にちらつくノイズのようなものを感じて目をこする。部屋を見回すと、読もうと思って買った小説が隅の方に積まれたまま、埃を被っているのが見える。その数冊の積み上げられた本が気だるい。部屋へと流れ込んでくる夏のぬるい風はあまりにも湿気を帯びている。そのうち、雨が降り始めるだろう。僕はなぜか昔から天気予報が得意だ。雨が地面に降り注ぐ光景が鮮やかにイメージされる。夏の雨が何の象徴かは分からないけれど、夏の雨は熱を奪い、大地を潤すことは知っている。スコールのような雨が、天井から僕の身体の上に降り注いでいるように感じた。
雨は体を重くするけれど、その分感覚を削りたての鉛筆ほど鋭く尖らせる。雨上がりに感じる雨の匂いがとても好きで、小さい頃は雨が上がったとたんに外に飛び出した。いつ頃からかその匂いを感じられなくなって、全力で駆けることも出来なくなった。とても寂しくて、その頃から煙草を吸い始めた。煙と感傷が交錯する。そんなことを考えていると、身体が煙草の煙を求め始めた。枯渇といえるほどの欲求。熱の歪みの中に見た、失われた感覚は水分以上に煙を欲する。一度だけ同様の欲求が身体を廻ったことがあった。マリとの初めてセックスをした夜。逃げ込んだ街の雑踏と公衆便所。
ふっと軽い頭痛がしたかと思うと、上半身の力が抜けた。僕の身体を支配する、見えない力に抗う気にはなれなかった。ただ天井を見つめ、煙の味を思い描いた。煙草を買いに行く気にはなれず、仕方なく灰皿から吸殻を一本取ろうとする。動きのひどく緩慢な、野生においての劣等動物のようにゆっくりと手を伸ばした。灰皿から吸殻を取り、丁寧に指で伸ばして火を着けた。学校の屋上で友達三人と初めて煙草を吸ったときの緊張感に似た雰囲気の中に、吐き出した煙は霧みたいに広がった。ゆっくりと胎動する煙。ひどく辛い味が口の中に残る。そこに欲求を満たすものは何も無かった。ハリボテの煙。僕自身がそこには形成されていて、涙も出なかった。
目を閉じ、マリの顔を思い浮かべようとした。現れたのはのっぺらぼうの人形の顔だ。僕はマリを顔では認識していなかったのだ。服装、言葉、行動。上辺の視覚的情報だけで形成されたイメージを所有しているだけ。おそらくその表情一つを思い出すにも時間がかかるだろう。何よりもマリをマリとして存在させるのは首筋のアザでしかない。

§2
 四月にしては蒸し暑かった土曜の夜、僕は下北沢にいた。悪友二人と酒を飲み、いい気分でカラオケボックスを探していた。どこも部屋がいっぱいで、待ち時間が一番短いボックスでも三十分待ちと言われ歌う気も半ば失せてしまっていた。どうしようかと話しながらロビーのソファーに座ろうとした。すると、カウンターの近くにいた二人の女の子が笑いながら歩み寄ってきた。軽くウェーブのかかった明るめの茶色い髪の子が話しかけてきた。「友達同士三人でカラオケに来たものの女だけでは盛り上がらず困っているし、部屋が空いてなくて困っているならば一緒に歌わないか」、そんな提案だった。問題は一気に解決した。酒のせいで重くなったまぶたをこすってよく見ると、二人とも今風のかわいい女の子だった。人生に曇りというものがあるという思考の働かないタイプだ。悪友二人はすっかりご機嫌で、さっそく各々好みのほうに話しかけていた。僕には女の子たちの活発さと、それに比例するようなけばけばしいメイクがうるさ過ぎるよう感じた。特に話をする気にはならず、一人離れて歩いた。カラオケのフロアーは変に光沢があって気味が悪く、壁に貼ってあるポスターや料理の値段表の楽天さとのギャップがあって、ひどく疲れさせる光景だった。八号室と書かれたドアの前に着き、女の子二人は声を揃えて「何もないところですが」と言いながらドアを開けた。
冷房の設定が最低温度になっているのか肌寒いくらいの部屋の中にはソファーが二つ、カラオケの機材とモニターがあった。入り口に近いソファーには、待ちぼうけという表情の女の子が横になっていた。僕の顔を見ても焦る様子もなく座り直し、笑顔を見せてくれた。微笑んでもほとんど顔の表情は変わらず、口の端がわずかにあがり、目を細めただけに等しかった。触れれば溶けてしまいそうな赤い唇と白い肌とがコントラストをなして、乏しい筈の表情がいやにはっきり、艶めかしく見える。僕は体の中心が熱くなるのを感じ、視線を顔から下ろす。首筋には楕円形の茶色いアザがあった。黒くて長い髪で見え隠れするアザはエロスの象徴としてそこに存在しているようだ。冷たい空気にはムスクの香りが混じっている。力が抜けるようにアザのある女の子の隣に座ると一層強いムスクの香りがする。香水の香りなのだろうけれど、今までに体験したどのムスクの香りよりも甘い。その子の発する香りと融合しているのだろうか。香りはアザから発せられているようにさえ思えた。
自己紹介が始まった。声をかけてきた子がヨウコ、一緒にロビーにいた子はミクと名乗り、趣味や好きな男性のタイプまで教えてくれた。同じ高校に通う高校三年生だと言うことも分かった。高校名を聞けばわりと有名な進学校だった。アザのある女の子は「マリ」という名前以外は何も言わなかった。ヨウコとミクのテンションとは明らかに差があったが、この三人はそれでバランスが取れているようだった。服装にしてもバッグはヴィトンやプラダで、やたらと光沢のある服を身にまとった二人に対して、マリは落ち着いた着こなしだった。白の短めのスカートに、比翼仕立てでパステルブルーの七部袖のシャツ、冷房で肌寒いのか濃いネイビーのカーディガンを羽織っている。年齢を考えると地味過ぎるはずなのに顔立ちと合っていて、全体として強い印象を与えた。テーブルの上には、メニューや曲検索の本と一緒にグラスが三つあった。甘そうなカクテルが注がれていて、毒々しい人工的な色彩が暗めの照明に照らされ誇張されている。原色の液体は部屋を満たしているようでもあった。息苦しい。僕は歌う気にはなれず、回ってきた入力用のリモコンをそのままマリに渡した。
「歌わないんですか?」
無口だと思っていたマリに話しかけられ、妙にざわついた気分になる。「お酒を飲みすぎたから」と適当なことを言うと、静かな微笑みを見せた。興味が消えたように本をめくるマリの横顔を眺めてしまう自分がいた。変化のないはずの横顔なのに見ていて飽きない。マリはこちらの視線に気付いているのか、いないのか見当のつかぬ表情のままリモコンを操作して曲を入力した。リモコンをテーブルに置くと急に僕の顔を覗き込んできた。
「どうかしたの?」
「だって、あなたもさっき私の顔をずうっと見ていたわ。シンヤさんでしたよね、それこそ私の顔、どうかしましたか?」
そんな素振りもなかったのにマリはしっかりと気付いていた。普通は視線を感じたならば意識してしまって表情が多少なり変わるはずなのに、それは固定されていた。
「見とれていたんだよ」
明確な自覚はないが、おそらく「見とれる」という現象には違いなかった。だから素直に返事をした。
「女の子の相手するの、慣れてるんですね」
カクテルに手を伸ばしながら、マリは髪を掻き揚げる。グラスの中にはカルーアミルクが入っていて、見ているだけで口の中が甘ったるくなりそうだ。
「甘いお酒が好きなの?」
「その質問の前に、高校生がお酒飲んでいいのか?って聞かないんですか?」
こちらから質問しているのに、質問で返されてしまう。それがマリ独特の会話法なのかもしれない。
「僕だって高校の頃から酒もタバコもっていうタイプの人間だから、見慣れた光景に違和感はないよ。ただ、違和感があるとすれば、君の雰囲気と親指大のアザさ」
いままでよりも少しだけ感情のある笑顔になる。そして、カルーアを混ぜるためのポッキーをくれた。カクテルが染みてふやけているポッキーはやけに甘かった。
マリに順番が回ってきたらしく、マイクを渡されモニターのほうへ視線を移した。表示された曲名も流れるイントロも僕の知らない曲だった。静かな洋楽で、歌詞はフランス語のようだ。声は大きくないのに、グラスや入り口の戸、僕の咽喉までも震わせているようだ。甘い香りと声による振動で心地の良い空間が形成される。振動は徐々に身体を下へ向かって広がり、腹の奥で煽情的な液体となった。歌い終え、マイクをヨウコに渡しているマリを見て(この女の子にはまっとうな恋愛感情は持たないだろうな)と思った。マリは肉欲的なベクトルのみを示している。
「素敵な声だね」
「私の声ってそんなに聞きなれない声?」
「そして気持ちの良い声だよ。とても心地が良かった。それに、悦楽的だ」
そう言って見上げると、マリの唇が僕の耳へゆっくりと近づいてくる。僕は無意識に首筋のアザに視線を移した。このアザが身体を操っている、本体なのかもしれないと思った。
「セックスしよう」

腹の奥で液体が蒸発したような気がした。(ああ、またか)とも思った。何で僕はすぐにセックスに逃げ込むのだろうか。二人で嘘をついて部屋を抜けだし、近くのホテルへ向かった。道行く人々が、街並み全てが僕とマリを冷たい視線で咎めているような気がした。禁断の林檎を噛みしめているような渋みのある酸味が空気中に広がった。ラブホテルなんて何度も来ている筈なのだけれど、童貞の高校生みたいに緊張していた。受付で部屋を選ぶ時に声が上擦ってしまった。一足先にシャワーを浴びた僕はバスローブを羽織って、マリを観察していた。部屋のバスルームは入り口のガラス戸がベッドから見えるようになっていて、マジックミラーになっている。マリがシャワーを浴びる姿、その瑞々しい裸体を眺めることが出来た。肉体は興奮し、肉欲によって強張っていた。しかし、精神の一部が萎えていた。自分の状態が不思議だった。マジックミラー越しに見える裸体は、挑発的でありながら一般的な肉体の持つ熱を発していないように見える。バスタオルで濡れた身体を包み、ベッドに腰掛けたマリはやはり微笑を浮かべていた。シャワーで流れ落ちたはずのムスクの香りが存在する。マリはいつのまにか冷蔵庫から缶ビールを取り出し、飲み始めていた。
「甘いカクテルじゃなくても飲めるんだね」
変に機械的な声でくだらない質問をしてしまう。マリは何も聞こえなかったように、焦点が定まらない目のままビールを飲みつづけている。その光景を見ていると僕もビールが飲みたくなって、冷蔵庫の方へと歩き出す。不意に裾を引っ張られたかと思うと、マリの唇の感触が僕の唇に生じた。ビールの匂いは少しもなく、そのかわりに甘い香りが身体の中に注がれていく。バスローブを脱ぎながら太ももに触れ、腹に触れ、乳房に触れた。乳房は若さなのか少しだけかたい。身体中を一通り確かめ、首筋のアザにキスをした。そして、味わうようにアザに舌を這わせた。マリは声を漏らしもせず、身体もくねらせたりはしなかった。指を押し当てると、愛撫は必要ないほどに濡れている。マリの顔に視線を移すと固定された微笑がそこにあった。それでも身体は充分すぎるほどに感じている。僕が吐息一つ洩らさず、無我夢中に彼女を貪る時も微笑は消えなかった。もっと丁寧に愛撫したかったが、僕の欲求が許さなかった。すぐにでもマリを味わいたかった。指で広げながらペニスを挿入すると微笑さえも消えた。正確に言えばマリの顔が消えた。肉欲の香りに誘導されるままセックスを続けた。ペニスはひたすらに快感にさらされているのに射精しない。そして、快感を与えているものが何かわからなかった。いつのまにか僕の意識の中からマリは消えていた。今抱いている女が誰かもわからないし、生物であるかどうかそれすらも確信がない。僕がペニスを抜き差ししている「何か」は小刻みに痙攣し始め、動きを止めた。まだ射精していない僕は、思考力が停止したロボットのように引き抜いたペニスを見つめている。「ゴメンナサイ」という音声が聞こえたかと思うと、まだ硬いままのペニスがなまめかしい唇で包まれる。僕のペニスを愛撫しながら、「何か」は身体を自ら愛撫する。女は口の中にも性感帯がある。硬いペニスが口内の粘膜を刺激し、快感が生じる。ペニスを咥える「何か」は女であることは確定した。しかし、女の顔はどうしても見えない。見えるのはいやらしくペニスを咥える唇だけだ。僕は複雑な思考の途中で射精に導かれた。そこにあるのは快感ではなく、ただ体液がペニスの先端から流れ出るという単純で無意味な感覚だった。

矛盾したセックス。
完全な快楽を虚無の中で味わう、そんなちぐはぐなセックス。

僕は射精(そう呼べるものかどうかは疑問だけれど)の後も停止したロボットだった。隣では知らぬ間に服を着たマリがビールの残りを飲んでいる。一度消去されたイメージが徐々にノイズ交じりに復元されていく。マリはいつのまにか再形成された。
「生ぬるいビールは不味いね」
空中にお手玉を放るように声を発する。
「いや、もしかすると生ぬるいビールが美味しく感じる時があるかもしれない」
マリから缶を受け取ると、一気に流し込む。麦茶が醗酵して炭酸ガスが発生したらこんな味になるのかもしれない。ぬるいビールはひどく不味いが、喉の渇きだけは癒してくれた。
「どう、美味しい?」
「いや、やっぱり不味いよ。けどビールはビールだ」
「どういう意味?」
「いやそのままの意味さ、ビールはいつでもビールとして存在するってことだよ。飲んでいる途中にスコッチやバーボンに変わったりしない」
「あら、飲んでいる最中にジンやワインになったら素敵じゃない?」
「僕は少なくとも不安になるね。僕は今何を飲んでいるんだろうって」
飲んでいる途中で別の酒に変わるビール。ペニスを挿入した途端、存在が確認できなくなる女。不思議なビールとマリの共通項。マリは自分のことを喋っているのかもしれない。
「途中でジンやワインに変わったビールは一体なんて呼べばいいと思う?」
マリは考えるようなそぶりを見せながら、首筋のアザをさすっている。
「飲み始めた時ビールだったんなら、ビールとして飲み干さなきゃだめよ」

ホテルを出て駅へ向かいながら電話番号を交換した。マリという名前と、番号だけが入力されたアドレスのデータはとても寂しく見えた。街のネオンはむやみにぎらついている。
「私とセックスフレンドにならない?」
髪を束ねながら平然と喋る。何のためらいもなく、半ば判断力を失ったようにゆっくりと頷いて同意した。マリは大げさにゆっくりと手を振りながら、僕とは反対方向の電車に乗った。電車が動き始め、そしてホームから消えた。急に眩暈が身体を襲い、吐き気が込み上げてきた。駅の便所で便器を抱え込んでいると涙が滲んだ。吐くものを吐き、カルキ臭い水で口を濯ぐ。無性に煙草が吸いたくなって、着ているポロシャツの胸ポケットをさぐる。震える手でやっとのことで煙草を取って火をつけた。煙は美味くも不味くもない。ただ口の中にまとわり付いて、さらに僕の動きを緩慢にする。鏡があるのに気がつき、煙草を咥えながら自分の顔を見る。髪をかきあげ、目を凝らす。汚い鏡に映る僕の顔は歪んでいる。

鏡の汚れが歪ませるのか?
それとも
煙草の煙が歪ませるのだろうか?

§3
 それからは、毎週土日には部屋でマリとセックスをした。マリはひたすらに快楽を望んだ。しかし、どんな愛撫にも、けして大きく喘いだり、身体を仰け反らせたりしなかった。僕とマリとの行為をビデオに録画してアダルトビデオとして誰かに鑑賞させたならば、「この女は不感症で、つまらない」と言ってビデオを止めるだろう。その淡々としていて、静的な行為からでもマリはしっかりと快楽を手に入れていた。だから僕は何の疑問も抱かずに要望通り快楽を与え続け、同時に快楽を得た。ノルマのように行為が上塗りされていった。行為の間変わらぬマリのシリアスな表情は、セックスというものが何か厳かな儀式のように感じさせた。マリとのセックスは一つだけ新しい感覚を僕に与えた。絶対的な虚無感。僕は虚無感の中に身を置きたくてセックスし続けているのだと思う。ガラスの透明な箱の中にいる自分を眺めているような感覚だった。自己確認の作業だ。完全なる虚無があるからこそ、自己と言う存在があるのだと安心する。これは初めての体験だった。
僕には元来、自己を、幽かではあっても確かめることが出来るスイッチは二つしかなかった。痛みと快楽。でも痛いのは嫌いだ。自傷行為に及ぶほど精神が歪んでいるわけではないし、マゾヒストの性質も持ち合わせていないのだから当然だ。選択の余地はなく、快楽を得ることが僕を確認する唯一の方法だった。大学のクラスメイト、飲み屋の店員、バイト先の同僚、僕の確認作業をサポートしてくれる女性はいくらでもいる。意識しているわけでもないのだが、女性と肉体関係にまで発展することは簡単に出来た。僕は肉の発する匂いのようなものを女性から感じることが出来た。具体的な匂いが漂ってくるのではなく、鼻の奥で微小な刺激が走るのだ。静電気にもたとえることができるかもしれない。その匂いに従って女性を誘えば、その日のうちに同じベッドの中で性交に至ることが当然だった。単純に言えば、ペニスを欲する女性を無意識のうちに判別してしまうということだ。だから、僕は様々なタイプの女性と寝ることでたった一つのものを得ている。射精に導かれた時の流動が自己を認識させ、安心感を与えてくれる。僕にとっての性交は自分自身のための儀式に過ぎない。僕の行う性交は自分勝手な行為だ。大きな安心感を与えてくれる、崇め奉らなければいけない女性たちは目まぐるしく交代していった。誰だって身勝手で、独りよがりな行為をいつまでも甘んじて受け入れなどしない。
快楽はアイデンティティを決定付けたりはしない。快楽の持つ効能はアイデンティティの無さを忘れさせるくらいのものでしかなく、快楽を得ている自己を認識させるだけだ。自己の存在があるかもしれない、という期待を与える。だからセックスは自己認識の一つの方法だ。しかし、マリは新たに「虚無」というものを与えてくれた。「快楽」と「虚無」。両極にある自己認識法。二つを同時に僕に与える存在としてマリがいる。もちろんセックスそれ自体に啓蒙性も無ければ中毒性も無い、一つの衝動だ。しかし、衝動によって決定する方向もあるのだ。僕はそんな惰性だけが動力となって蠢く臆病な虫のキューブリックだ。
しかし、自慰行為というものは、同じく射精を導く行為ではあっても、自己の確認作業にはならなかった。作業に不可欠な要素が抜け落ちているのだ。射精を導くのは自己ではなく、他者でなくてはならない。認識されぬままの自己が作業を遂行するのは、白昼夢の中の出来事と同義だ。ペニスを刺激して射精へと導くのが自分の手でなく、他者である女性の膣であるからこそ作業は正確に遂行される。僕にとって思春期を迎えた頃から性交の意味は変わっていない。あくまでも他者との共同作業。二十歳を過ぎた今になるまで、「恋」と世間一般で呼ばれている感情が湧きあがったことがない。自分でも寂しい人間かもしれないと時々思うがどうしようもないのだ。それ以上に僕を不安にさせるのは自己存在の未証明。アイデンティティを持たぬ異形のキューブリック。
「恋」ではなく、僕が初めて「固執」した相手は、同じサークルの先輩だった。先輩は解放的で、ある程度仲の良い後輩にならばすぐにセックスさせてくれることで有名だった。非常にさっぱりとした性格の女性だった。マリとは真逆といってもいいくらいで、いつも快活に笑っていた。ボーイッシュで、ショートカットとジーンズがとてもよく似合う女性だった。セックスに開放的といっても淫猥な雰囲気などなく、先輩なりの男の選択基準を持っているようだった。数え切れないほどセックスをしたが、二人とも飽きずに二年も関係は続いた。僕にとって非常に珍しいことだった。今、彼女のことが急に思い出されたのは何故なのだろうか。頭の中には笑顔の先輩が鮮明に浮かび上がる。笑うと必ず八重歯が見えて、先輩はなぜかそのことを気にしていた。僕にはその八重歯も、恥ずかしがる仕草もかわいくて仕方がなかった。他の女性たちと関係を持っても、先輩とのセックスは定期的に続けていた。先輩とはセックスのためだけに会っていたのだけれど、セックスの後に2時間ほど話をすることがやけに楽しかった。たまに一緒に映画も見た。月に一度くらいだけれど先輩の手作りの料理にありつけることもあった。
先輩を失うことになったのは、僕が固執し始めたからだ。関係を終わらせたいと言いだしたときの先輩はとても寂しそうだった。泣いてこそいなかったが、最後になって初めて見る表情だった。
「なんであなたを自分の中から消去しなければいけないのか、私自身わからない。だけど、ライオンが他の草食動物の首筋を噛み切り、その内臓までも食べなければいけないのと同じように、必ず行われなければバランスが保てないことって人間にもあるのよ。一つでも狂えば全体が狂ってしまうこと、その一つなの。狂気に見えて、実は不可欠なことが存在する。狂気が別の狂気を防ぐこともあるんだから。
 私とシンヤは再びどこか会うことがあるかもしれない。そこに懐かしさや思い出なんてものが介在するだけで、決してそれは復元じゃない。問題は何を失うか。それが自分にとってどんなものなのか。常に意識していなければ狂気は狂気のまま。自分のために犠牲になった全てのものが無駄になってしまう。
さあ、笑って最後のセックスをしましょう・・・」
僕は先輩を強く抱きしめた。潰れてしまってもおかしくない程に抱きしめた。何度も唇を重ね、着ている服を剥ぎ取るように脱がせた。ほとんど愛撫もせず、コンドームもしないでそのままのペニスを突き入れた。それでも先輩はずっと笑顔のままだった。僕は無我夢中に先輩を求め、そして先輩の中へ自分を放出した。
先輩の最後の言葉が心の中でくり返され、しめつけられるような痛みが生じる。
「ほら、まるで恋愛じゃない?」
言葉や態度では青臭い恋愛を嫌っている自分がいて、その正反対の位置に憧れている自分がいる。自分自身が恋愛の中に身を置こうとは思えないのに、そんな話や光景が好きな自分がいる。先輩との関係もマリとの関係も、同じセックスフレンドなのに全く違うものだ。マリと構築する空間は無重力空間のようで非現実的だが、先輩と構築した空間は現実的な空間だった。僕が望んでいるのはどちらなのか判断がつかない。でも、誰も教えてはくれない。

マリの首筋に茶色い楕円形のアザとは別に、見知らぬ紫がかった跡を見つけたことがあった。僕が付けたものではない接吻の跡。白々しいその痕跡を眺めていると虚しい気持ちになった。
「首筋にアザが増えているよ」
「高校のクラスメイトが付けたの。自分のものだっていう目印を付けたかったんじゃない。頭悪いよね。どうせすぐに消えちゃうのに・・・」
マリは驚いたような表情も見せず、宙を見つめたまま答えた。僕はタバコを吸いながら何も言わずにいた。テレビのブラウン管は部屋の風景をほんの少しだけ歪ませて写した。歪んだものが本物で、整然としたものが偽物なのか?首筋を摩りながら電球を見つめているマリは本物なのか偽物なのか、僕にはわからなかった。
「タバコ、吸い過ぎだね。」
煙が狭い部屋の中に充満して停滞した。電球の淡い光が煙と融合して視界をさらに不明瞭なものへと変える。マリはそこに何を見ているのだろうか。おそらく何も見てはいないのだろう。
「この茶色いアザは生まれつきだけど、シンヤくんの印でもいいよ」
それっきり沈黙が続いた。そのうちに寝息が聞こえ始めた。灰皿に置いていたタバコの火は既に消えていた。マリの寝顔は無表情だ。だけど、無表情なはずの寝顔が僕に表情を与えた。本の挿し絵の中にあるようなその寝顔はとても魅力的だなと思った。
先輩と先輩の言葉を思い出したのは、マリと言う名の衝動に恐れのようなものを抱いたからかもしれない。僕はおそらく先輩とは同一のセックスを共有し、マリとは違うセックスを共有していた。だからこそ、恐ろしかった。でも今は、その衝動が僕の世界のバランスを保っている。受け入れなくてはいけないのだ。たとえどんなラストシーンが訪れるとしても。ただ、一つ疑問が残る。マリのアザは消えることはないのだろうか。いずれ消えてしまうような気がして、今のうちによく目に焼き付けておかなければいけない。その時はただ漠然とそう思って、首筋のアザを見つめ続けた。

§4
 六月入梅の頃、マリと僕のセックスは飽和状態だった。常に新しい快感を求めるマリに戸惑いを覚えた。マリは被虐的行為をも望んだのだ。その行為中に悲鳴もあげず、苦悶の表情あえ浮かべなかった。平らな音で構成された声で要求する。「縛って」、「叩いて」、「首を締めて」。SMの知識もないのでマリに痛覚を与える行為を、ただ単純に繰り返すしかなかった。それは僕にとって自傷行為に近かった。白い皮膚が所々赤みを帯び、縄の跡が付き、マリの性器から流れ出た透明な液体は下に敷いたタオルに染み込む。目に映る肉体の変化のみが自分を確認させた。肉体の変化が進行するうちにマリは額にうっすらと汗を掻き始めた。その汗には明らかに死への傾斜が含まれていた。そして、マリは再び消えた。僕は怖くなって、殺意と同義の感情とともに強く「何か」の首を締めた。アザも一緒に握りつぶしてしまいたかった。そのまま死を司るものへと変貌してしまいたかった。流動するものを凝固させたかった。咳き込む声が聞こえ、ふと我に帰ると、そこにマリがいた。ひとしきり呼吸が整うと、マリは微笑を浮かべた。唯一凝固しているモノ。憔悴しきった僕は横に倒れるようにうつ伏せになると、そのまま眠ってしまった。
強い雨が振る音で目が覚めたとき、マリはベッドにはいなかった。シーツの皺も消えているように見え、そこに痕跡がなかった。本当にマリなんて存在するのか本気で考えた。すべて僕の幻想ではないか。もともとカラオケボックスにはあの二人の女の子しかいなかったのではないか。そんな馬鹿げたことまで考えた。水でも飲もうとコップに手を伸ばすと、テーブルの上に一枚のルーズリーフがあるのを見つけた。
(シンヤくんへ。雨が降りそうだから帰ります。月曜日からは実力考査が始まるから勉強しなくてはいけません。だから、来週は来られないかもしれません。また連絡します。さようなら。マリ)
薄暗い部屋の中で佇みながら、マリが寝ていたはずのシーツを擦った。何度も何度も擦ってみたけれど、そこには湿気も何もなくて、気持ちが良かった。
 
月曜日。快晴とはいえないまでも、一時の梅雨の晴れ間を見せた。雨が上がったのだから、どこかぶらつくのもいいだろうと八王子まで出かけることにした。都心に比べ、少しは空気もきれいなのだろうという単純な思い付きだった。雨が止んで、太陽が照ることが必ずしも良いわけではない。そんなことは晴れている時は思いもしないものだ。車内が空いていたので一人で二つ分のスペースを使えた。その空白はいやに寂しかった。空白を横に連れてひたすら電車に揺られた。駅に着いた途端、町を歩いて回る気が失せてしまった。目的地を設定して移動する行為だけでお腹一杯になってしまったのだ。しばらくは改札口の近くで宙を見つけていたが、もちろんそこには何もなかった。
駅ビルの中をただ歩くことで無感情な自分を再確認した。すべてが色を失っている。気付けばレストランばかりあるフロアーへ着いた。最上階。別に腹も空いていなかったが、一軒のピザとパスタの店が目に入った。朝から水さえ飲んでいないのだから何かを口に入れておいてもいいかもしれないなと思い、店に入った。午後二時過ぎのレストランは僕以外に客は一組だけだった。初老の夫婦のようで、不器用な手つきでフォークを使い口へとパスタを運んでいた。パスタなんてしばらく食べていない。
「お客様、ご注文受けたまわります」
僕はウエイトレスの顔も見ずに「トマトとナスのパスタ」と言いながら、煙草に火をつけようとした。
「お客様申し訳ありません。店内禁煙となっておりますので、お煙草のほうご遠慮ください」
「ああ、そうですか。すいません」
照れ隠しに笑顔を作って、顔を見上げた。
「先輩・・・」
卒業したこと以外、その後のことは何も分からずじまいだった先輩。髪は肩まで伸びていたけれど、何度もキスした唇がそこにあった。涙もろい瞳があった。すぐに赤くなる鼻も、触ると怒る広いおでこも。声が聞こえなかったのか、僕に気付かないのか先輩はそのまま厨房へと入っていった。見間違うはずがない。テーブルクロスのレースをいじりながら、パスタが運ばれてくるのを待った。携帯電話のバイブレーションの振動が胸を刺激したが、見る気になれるはずもない。目を閉じ、何かに祈るように時が過ぎるのを待つしかなかった。
「お待たせしました。ご注文は以上でおそろいでしょうか?」
ミートソース?僕が注文したのはトマトとナスのパスタだ。皿にはミートソースのたっぷりかかったパスタがあった。
「よろしいですか?」
僕は呆然と皿を見つめた。料理の苦手な先輩が一番得意だったのは、缶詰のミートソースをかけただけのスパゲッティーだった。回りくどい返事。そこには先輩の言葉通り、懐かしさと避けられぬ何かが存在した。もう、言葉を交わすこともないのだろう。
「はい」
皿を見つめたまま返事をすると、代金の記入された紙をテーブルに置く先輩の左手が見えた。薬指にはごくシンプルなシルバーのリングが光っていた。先輩は指輪なんて絶対にしない人だった。結婚したのかもしれない。そんなことはどうでもよかった。それ以上に先輩の変化に戸惑った。
僕はパスタを食べることが出来なかった。一口でも口に含めば吐き出してしまうかもしれなかった。水を三杯飲んで、伝票を持つと別のウエイトレスに声をかけた。会計を待つレジから、老夫婦にコーヒーを運ぶ先輩が見えた。僕が大好きだった八重歯の見える笑顔で応対している。もう見ることのない八重歯。エレベーターに乗り込んでも、どの階のボタンも押さなかった。そのうち誰かが別の階でボタン押したのか、エレベーターは動き始めた。僕の隣にいつもある空白は誰のためのものなのだろう。耳鳴りがし始め、空白はいつのまにか僕の体内に存在していた。

 夕暮れの赤い光線がフィルターとなって視界に存在するもの全てが赤いセロハンを纏っている。帰りの電車は立っている人もいるのに、僕は再び二人分の空席を見つけた。そこだけ赤みが強いようにも感じる。窓際に腰かける。景色を見ることは無意味に思われ、うつむきながら時が過ぎるのを待った。赤色が失われ闇へと移行する頃、着信があったことを思い出した。胸ポケットの携帯電話を手に取ってみると、着信履歴の画面には二文字だけ、"マリ"。いつの間にか車内は帰宅時間が近いせいか混み合っていた。余分なスペースなど既に無かった。それでも僕の中に空白は存在した。
 バイクを停めておいた駅名がアナウンスされ、人を掻き分けホームへ降りた。五分ほど立ち止っているだけで人の群れは消える。おもむろに胸ポケットから携帯電話を取り出した。リダイヤルしようとした瞬間メールの受信を知らせる画面が表示される。そのまま未読メールの画面へと移ると、マリ専用の受信箱に一通のメール。
(今私は海辺にいます。とても潮風が気持ちいいです。ただ、そのことをシンヤくんに伝えたかった)
他愛もないメール。それでも、そのメールは僕の中にある空白を一瞬埋めた。急いで返信しようとボタンを押す。
(今から会わないか?)
短い文章を何度も間違いながら打ち込んだ。題名も「Re:」のまま送信する。しかし受信は拒否されていた。何度も試みても結果は同じだった。さっきのメールは最後のメールだったのだ。おそらく電話も着信拒否されているだろう。
先輩との偶然の出会いが僕を歩かせた。でも、歩くのに向いてはいないのだろう、歩けばすぐに転んでしまう。転ばなければ思い出せない馬鹿なのだ。そう、僕の執着は空白と同居する。

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Exit