バーでカクテルを飲んだ後は、ほろ酔いのまま根津卓巳のマンションに来た。豪勢とまでいかないが水準以上のマンションだった。部屋の中に入ると、一人暮らしの男の部屋と思えぬほどきれいでシンプルだった。唯一凝っていたのは淡い間接照明と、オーディオくらいだった。
「シャワー、先に浴びてきていいですよ。その間にもう一杯お酒を用意しておきます。バスタオルとバスローブは籠に入っていますから」
根津卓巳はずっと敬語だった。風貌と合っているから違和感はない。丁寧な言葉使いは私の性的衝動を刺激した。男にずっと敬語で話しかけられるとい経験は初めてだった。もどかしさが軽いストレスを与えることがSMをイメージさせた。私はSMの体験はないが、マゾヒストの感じる快楽というものの一端を得た気分になった。脱衣所で服を脱いでから確かめたが、やはり私は濡れていた。迷ったがシャワーを浴びず、裸のままバスローブを纏ってリビングに戻る。根津卓巳は言葉通りキッチンで酒の用意をしていた。私が戻ってきたことに気がつくと、無言のまま私を見つめる。しばらく見詰め合っていると、アイスピックを置いてゆっくりと近づいてきた。
「もう限界ですか?」
私は耳を疑った。しかし、確かに根津卓巳は「モウゲンカイデスカ」と尋ねたのだ。この男は私がもう待ちきれぬほど性欲が高まり、自分の性器を濡らしていることを知っているのだ。目に見えぬ長い鼻で、メスの匂いを嗅いでいるに違いない。背筋に寒気が走った。同時に生温かい体液が太ももを伝うのがわかった。私は恥かしさで顔を赤らめながらも頷いた。根津卓巳は微笑みながら私の手を取って寝室へと連れて行った。
ベッドのシーツに肌が触れることが愛撫と同質の効果を持った。体全体が性感帯となってしまったかのようだ。根津卓巳はしばらくの間、私の鎖骨辺りを舐めることしかしなかった。それだけで股から太腿にかけて、私の体液がついていない部分などなくなっていた。ただ歯を食いしばって快感で声を漏らさぬよう堪えた。ここで歓喜の声を上げてしまえば動物になってしまいそうだった。執拗な鎖骨への愛撫が終わると、肉付きの良い大きな手が臀部を覆った。揉むことと擦ることを繰り返し、時々指が尻の割れ目をも愛撫した。愛撫にセオリーなどないのかもしれいが、今まで体験してきた愛撫とは全くの別物だった。尻への愛撫も執拗なまでに続いた。しかし、快感は途切れることはなかった。遂に根津卓巳は細やかな愛撫を始めた。同時に私は堪えきれなくなり悦楽を音にしたような叫び声を上げた。既に視界は失われているも同然だった。根津卓巳の大きくてふっくらとした体のシルエットが確認できる以外は、視覚よりも触覚にのみ意識が集中した。快感に全神経を向けていると、急に下腹部に今までにない強烈な熱に似た快楽が生じた。おそらく根津卓巳がペニスで私を貫いたのだ。私は言語を失い、獣になった。男に気を聞かせて「気持ちいい」だとか「すごい」だとか言うのは私のセックスのマナーだ。今口を開いて出るのは泣き声に過ぎない。私は象がどのような交尾をするか知らない。それでも、悦楽の波が訪れるたびに「象のようなセックスだ」と頭の中で呟いた。何回呟いたかわからぬうちに意識が遠のいていった。
ぼんやりとした視界に戸惑いながら目を開けると、根津卓巳はベッドルームに置いてあるイスに腰掛けていた。素肌の上にバスローブだけを身につけ、無邪気な笑顔を浮かべていた。私は気を失うほどの快楽を、この無邪気に微笑む男に与えられたのだ。再び眼を瞑ると半年前に別れた男がいた。顔は見えない。私が処女を奉げた、あるいは私が処女を奪われた先輩も現れて、顔も見えた。何人か私と交わった他の男たちの顔も見える。半年前に別れた男だけは真っ白いキャンバスでしかなかった。とても不思議な気分だ。あれほど固執した男の顔が失われてしまった。くやしさとかこだわりとか、疲れを引き起こすものが消えている。空気の動きに気が付いて眼を開けると根津卓巳がベッドの前に立っていた。
「喜んでもらえましたか?」
変らぬ笑顔で尋ねてくる。質問全てが的外れだ。
「あなたって象に似てるわね」
なぜか根津卓巳はより一層嬉しそうに顔を綻ばせると、ベッドに腰を下ろした。
「以前、同じように言われたことが一度だけあるんです。その人は私を歓喜天のようだと言いました。とても大好きな女性に言われたことなので、象に似てるといわれるのは嬉しいです」
「カンキテン?」
話が見えなくて、思わず聞き返した。
「歓喜天というのは仏教の神様の一人で、セックスを守護する神様らしいんです。その歓喜天のヒンドゥー教における名前がガネーシャというそうで、その姿形が象なんだそうです。厳密に言えば、体は人間で頭だけが像らしいけれど、神様の姿なんてどうとでもなりますからね」
詳しく説明されれば少しはわかった。確かにセックスを司る神様で、像の姿をしているのならば根津卓巳をイメージさせるだろう。おぼろげであるけれど、根津卓巳は愛撫において私の性器には触れなかった。唯一私の性器に触れたのは、他でもないペニスだけだった。それにキスもしなかった。凄まじいまでの快感が私の体の中に存在したことは、まだ残る淡い疼きからも明白だ。しかし、身体の中から何かを掻き出されて、空洞になってしまった気がする。
「悠子さんは何かに似ていると言われたことがありますか?」
女優の誰それだとか、グラビアアイドルのあの子に似ていると言われたことは何回かあった。でも、動物や、あまつさえ神様に似ていると言われたことはない。
「根津さんはどう思いますか?自分ではよくわからないから」
根津卓巳は真剣に考えているようだった。腕組みをして、小さな声で唸っている。私に似ている動物なんているのだろうか。もしかするとそれを飛び越えて神様で似ている神様がいるかもしれない。もしそうだとしたら私ははしゃいでしまいそうだ。でも、残念だけれど私に似ている神様なんているわけがないだろう。私のようなちっぽけな存在に似ていると言われたら神様が怒ってしまう。
「あなたは動物というよりも菊理媛のような女性だ」
不意に根津卓巳の声がした。キクリヒメ、とはまた聞き慣れぬ名前だ。私が質問する前に根津卓巳が説明を始めた。
「先程言った女性の影響で私も神話の類が好きになってしまったんですよ。言い忘れていましたが、その女性は大学で様々な神話を研究している人なんです。菊理媛というのは北陸にある白山の女神です。菊理媛の『キク』は、菊の花の『菊』です。この菊理媛にも別名があって、シラヤマヒメともククリヒメとも言います。復活の女神なんですよ」
根津卓巳のゆっくりとした説明を聞き終わると、蝋燭の炎のように小さな悲しみがこみ上げてきた。私のような女を女神に似ているなんて恥かしい台詞を吐く男が目の前にいる。私は涙目になっていた。情けなくなってしまった。惰性で生きてきた自分というものが損なわれたことが。いや、損なわれたのではない、損なわれてしまって粉々になっていたことに気が付かされたのだ。そんな私がなぜ復活の女神なんだ。
「どうしましたか?なにか気に障ること言ってしまいましたか?」
また的外れの質問だ。
「私のような人間がなんで女神に似ているんですか?復活?馬鹿馬鹿しくて涙も出てしまうわ」
根津卓巳は困り果てたような顔をしながらも苦笑いしながら考えていた。
「先程は直感的に言ってしまったんですが、おそらくそう感じたのはあなたとセックスしたからです。お恥かしい話ですが聞いてください。私は先程の女性が大好きだったのです。ですから結婚を申し込みました。結果は見事に断られました。彼女には大切な研究があるのです。セックスは出来ても結婚は出来ないと言われました。そのあと私はショックから心因性の男性器が不能になってしまったのです。一言で言えばインポテンツです。その日から何人かの女性がベッドルームで裸になりました。しかし、私のペニスは何の反応もしなかった。話を聞いてるかも知れませんがサチエさんのお友達や、サチエさんともそういった雰囲気にまではなりました。申し訳ありませんがやはり駄目でした。それなのに私は悠子さんとは会ったときから興奮していた。
不能になってからのデートは、いつもあのレストランを使っていました。なぜなら名物の鹿肉ステーキは精力増強でも有名だからです。今日は鹿肉の効き目は絶大でした。だからこそ私は安心して、悠子さんとデートを重ねようと思いました。けど、悠子さんが僕を求めてくれた。本当に嬉しかった。そして予想通り素晴らしいセックスでした。だからあなたは私にとって復活の女神も同じなんですよ」
そこまで話を聞いて大きな声で笑ってしまった。なんのことはない、私はサチエに騙されていたのだ。サチエはインポテンツで自分に恥をかかせた男を紹介して、私にも同じ目にあわせようとした。私が嫌いな人間が、私に好意的であるはずがないのだ。でも、サチエも目論見は大きく外れ、真逆の結果になった。根津卓巳は本当にカンキテンだった。それに、根津卓巳にならばば女神に似ていると言われても悲しくはなくなってきた。インポテンツを復活させる女神ならば私に相応しい。
「まじめな話ですよ。笑わないでください」
そう言いながら根津卓巳も笑っていた。私も大笑いした。
「ところで・・・もう一回セックスしませんか?」
根津卓巳は照れながら言った。キッチンで私に「ゲンカイデスカ」と言った根津卓巳はどこかに消えていた。照れているほうが自然に見える。
「じゃあ今度は私も手や口でしてあげるから、根津さんもね」
根津卓巳は何度も頷いてからキスをしてきた。キスを注文するのを忘れていたと思った矢先だった。
根津卓巳は静か寝息を立てて寝ている。私は二回目も失神してしまった。気が付けば横で大きな体の象が寝ていた。寝顔を見ていると何故か自分の通う専門学校の喧騒が聞こえてくるようだ。日常とは寝顔のようなものが集まって形成しているんだと思った。起こさぬようにベッドから出て、シャワーを浴びることにした。バスローブを抱えて脱衣所の鏡の前に立つ。そこには見慣れない自分がいた。自分の顔はこのような顔だったのか?私はわだかまりになっていたものも忘れたが、自分の顔も忘れてしまったのではないだろうか。根津卓巳と出会ったことは何を示しているのだろう。恋愛なんて気楽なものとは段階が違うように思う。また、私は象が奪っていったものがなんだったのかを考えた。でも、わからなかった。ただ、空洞を風が通り抜けるだけ。逆に与えたものを考えたが、それはこれからわかることなのだろう。そう思って考えることを止めた。
シャワーの温度設定をいつもよりも2℃上げた。熱いシャワーを頭から浴びていたら、泣きたくなった。女の勝手で何とかならないかと思ったけれど無理だった。私はシャワーのお湯と一緒に涙も排水口に流した。自分も一緒に流れてしまいそうで怖かったけれど、思い切って泣いた。風呂の中にある小さな鏡で自分の顔を見ると見慣れた顔があった。ほっとしたけれど、それはなにも保障しない。いつもより熱いお湯を浴び続けた身体はのぼせそうに熱くなっていた。外の冷気を入れようと窓を開ける。心地よい冷気が身体を包む。出かける時は罵倒した冷たい空気。今度は感謝。いつの間にか空は晴れ、三日月が出ていた。それに私に似ていると言った女神も名前に「菊」があった。その菊が白菊の可能性もある。でも、窓にも排水口にも色鮮やかな黄色い万寿菊が咲いていた。「ああそうか」と呟く。今日の私は独り言が多い。とりあえず、私に与えられたのは三日月に菊、そしてレモン水。根津卓巳はレモン水を勧めた時こう言った。「最後の最後に飲むとすっきりするんですよ」
一度空っぽにリセットされた私の体内は、今は黄色一色。これからどんな色が重ね塗りされていくか分からない。でも、今は黄色一色。象はまだベッドで寝ているだろう。起きたら的外れだけれどステキな質問をしよう。
あなたの好きな色は何色?
〈あとがき〉
いやあ、二作目のUPですが、短いの立て続けにスイマセン。俺は短編作家と自負してるんで(笑)この作品は新風舎主催の第二回恋愛文学コンテストに正式に応募した作品です。やはり、谷崎を尊敬し、芥川や太宰も同様な俺にとって、男が書く女性というものは永遠のテーマの一つです。LOVEの訳語は恋愛ではありません。「恋愛=恋」はとっても肉体的なもののように思います。「愛」ならば
精神だと思いますが。もちろん肉体オンリーではありません。主成分が肉体だと思うのです。
で、この作品は是非多くの女性に読んでいただいて、感想をお寄せいただきたいのです。俺のセックス描写はきつめなのでつらい人もいるかもしれませんが、「ここは女性的におかしい」とか具体的なダメ出し、「共感できた」と言う部分など、なんなら匿名でもよいのでお願いします。一応色々女性心理というものを研究はしているのですが、さてさて・・・
どうぞ懲りずに読んでやってくださいね!