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その後も僕は桜湯に通った。ごくたまに将棋でも勝てるようになった。桜湯で沢木さんが来るのを待って将棋を指したり、見ている時のほうがつまらない大学の講義を聴くよりも何倍も充実した時間だった。しかし、一ヶ月しても沢木さんには会えなかった。あの日以来沢木さんの人生について考えていた。救いようのない人生。そんな人生が今の沢木さんをどのように支配しているのかを考えた。それに、話の続きが気になった。僕には平凡なものしか浮かばなかった。それこそドラマの脚本のような陳腐なストーリーだった。沢木さんの話の続きがありふれたものであるはずがなかった。だからこそ、僕には桜湯の座敷で待つこと意外に僕の欲求を満たす行為はなかった。手のひらに何個か将棋の駒をのせ遊ばせ、爺さんたちの将棋をぼんやりと眺めていた。
そんな日々が続き、カレンダーの日付が二月の半ばに差し掛かったある日、沢木さんは桜湯に現れた。黒い皮のダウンを羽織って、無精ひげを生やしていた。僕の顔を見ると軽く手を挙げ、そのまま目の前に座った。
「この間は申し訳なかった。それに、みっともねえ格好を見せちまった。年取るとダメだなあ、酒も涙腺も弱くなる」
僕は大きく深呼吸をした。
「僕と将棋を一局指していただけませんか」
別に腕試しとか、胸を借りるだとか、そんな勝負事のような感覚で発した言葉ではなかった。ただ、沢木さんの話の全てを聞く前に「逆流」を体感したかった。受け入れる準備が必要だと思った。今の状態のまま受け入れるのが怖かった。僕自身が捩じれてしまうのではないかと心配になった。
「その前に茶を飲ませてもらうよ」
茶碗に茶を注ぐと、口元に近づけそこで動きを止めた。
「茶柱が立ってるよ。今日はそんなに良い日なのかね」
そう言うと沢木さんは、微笑とも苦笑とも取れるような表情で一気に緑茶を飲み干した。使い込まれ、色の濃くなった将棋盤の上に駒がばら撒かれるように置かれた。
とにかく、精一杯抗ってみたかった。僕は今まで身についた将棋の常識、テクニックを全て頭から排除した。沢木さんは以前こう言った。「俺の将棋は滅茶苦茶なんだ」と。ならば、僕も滅茶苦茶に指したのならば一体どういう反応が返ってくるのだろう。試してみる価値は充分にあった。ひたすら出鱈目に、非常識に駒を動かした。それは勝つための布石ではなく、沢木さんの痛みを最大限に引き出すための儀式だった。そうすれば盤上に逆流が生じるはずだ。無我夢中で駒を動かしているうちに、ふと我に返って沢木さんを見上げた。沢木さんは駒を動かす時以外はずっと目をつぶっていた。将棋の最中にそんなことをするのは始めてだった。その姿を見た途端に、僕の動きはギクシャクし始めた。周りのギャラリーの顔が歪んで見えた。何も考えられず、ただ手を動かした。自分の全てが押しつぶされそうだった。僕は大学というモラトリアム空間に身を置いて、いったい何をすべきなのだろうか。物事は勝手に進むもので、人は言い訳のように「運命」という言葉を生み出した。その言葉に酩酊し、千鳥足で道を歩く。だから歪んだ景色が視界に生じて、迷走する。誰もが気づいていない、もしくは気付かない振りをしている。沢木さんは違う。酔ってもしっかりとした歩調で真正面向いて歩いている。虚像を理解している。惰性で生きる人間、歪んだ人間が見た光景。それは僕のような人間の平衡感覚の狂った視界に生じたものであって、沢木さんのように平然とした顔で真っ直ぐ立っている人が見る光景ではないのだ。頭の中に赤く鈍い光を放つ木炭が一つ一つ増殖していくようだった。
どれくらいそんな状態が続いたのだろうか
「王様を詰んで、俺の勝ちだ」
沢木さんの無邪気な声で、自分の視界が明瞭になった。目の前には緑茶を急須から注ぐ沢木さんがいた。にこやかで、晴れ晴れとした表情だった。僕は額から汗が流れていることに気がついて拭った。身体全体が熱を発しているかのように熱かった。
「いい勝負だった」
無言で頷くのがやっとだった。身体はそれくらいに体力を消耗していた。
「また焼き鳥でも食いにいくか」
ゆっくりと立ち上がってから、眩暈を感じた。沢木さんはよろける僕の身体をそっと支えてくれた。そこに父親のようなぬくもりなどは感じなかった。無機物のような、透明な感覚が僕を支える腕から流れ込んできた。急いでダッフルコートを着込み、沢木さんよりも早く桜湯の玄関をくぐった。外は雪がちらつき始めていた。空を見上げると目の中に雪が飛び込んできそうだった。空気をゆっくり、大きく吸い込む。冷え切った空気が体中を駈け巡った。見慣れた景色の中に、うっすらと筆を走らせたように見知らぬ色彩が見えた。
「今日は飲みすぎねえようにするからよ」
僕の肩を軽く叩きながら沢木さんが言った。やはり右足をかばいながら、ゆっくりと歩き始めた。なぜか右手には白い薔薇の花束が握られていた。
「その花束どうしたんですか」
疲労感からか、動きの鈍い唇を動かす。
「ああ、今日は俺の息子と女房の命日だったんだ」
身体の疲れなど感じなくなっていた。木偶人形のように歩く沢木さんにかける言葉など見つからなかった。店の前まで来ると、臨時休業と書かれたわら半紙が風でハタハタと音を立てていた。
「しゃあねえ、俺のアパートでいいかい」
僕は黙ってついていった。
駅裏の小道を抜けて五分ばかり歩いただろうか、川の流れる音が聞こえてきた。僕も何度か釣りに来たことのある大きな川だった。下流へと向かって十分も歩くと、沢木さんのアパートは川沿いに一軒だけ建っていた。「舟津荘」と書かれたブリキの看板はくすんで、ところどころへこんでいた。アパートの名前と、近くの川原にボートが二艘つないであることから釣具屋も経営してるらしかった。実際、建物の一階は商店の構を取っていて、「釣具・舟津屋」というまだ新しい看板がかかっていた。建物の横に取り付けられた、半ば錆びた鉄の階段を上ると八部屋ほど同じつくりのドアが並んでいた。沢木さんは一番奥の八号室の鍵穴に鍵を差し込んだ。
部屋の中は驚くほど何もなかった。テレビもなければ冷蔵庫もなく、部屋の真ん中に炬燵が置かれ、座布団が一つ窓際の畳の上にあった。小さな木制の本棚には疎らに本が並び、その上には古めかしいラジオが乗っていた。沢木さんは花束をバケツに入れると、台所に置いてあったダンボールから日本酒の入った一升瓶と一緒に、さきいかやら、柿の種やらを持ってきた。
「今、コップ持ってくるからよ。酒は二級の日本酒、つまみは乾き物」
「気を使わないで下さいよ」
右足をかばいながら台所へ向かう沢木さんの姿と、殺風景な部屋とが同調しているかのようで見ていられなかった。窓の方へ視線を向けると陽がほとんど落ちかかっていた。窓辺に近づき、カーテンの隙間から外を見る。夕暮れで赤く染まった空間に雪が降り続けていた。
僕はぼんやりと濁った赤い空間に降る雪を見つめていた。今降るこの雪は僕の中にも積もり、永久に溶けないような気がした。炬燵のテーブル上には既に酒が注がれたコップが二つあり、新聞紙の上に乾き物が混ざり合うように置かれていた。窓際に座った沢木さんはコップを持つと目で僕にもコップを持つことを促し、何も喋らずにそっとコップを掲げた。真似るようにコップを掲げると、部屋に入り込んできた赤い光がコップに吸い込まれるように見えた。沢木さんは目をしばらく目を瞑ってから一気に酒を飲み干した。おそらく亡くなった奥さんと、息子さんへの沢木さん流の黙祷に違いなかった。僕も同じように黙祷を捧げてから一気に飲み干した。沢木さんは空になった二つのコップに酒を注いだが、これ以上は喉を通りそうになかった。それは沢木さんも同じだったようで、さきいかを口にくわえながら天井を眺めていた。
「妙にしんみりとした気持ちになっちまった」
そう一言呟くとそのまま倒れるように仰向けになった。腕を交差させ、顔に乗せたままの沢木さんは微かに震えていた。僕は黙って天井を見ていた。不規則な木目が歪んだ渦に見え気が滅入りそうだった。改めて見回しても本当に何もない部屋だった。しかし、さっきは陰に隠れて見えなかったのか、ラジオの横に小さな写真立てが置いてあった。そこには若い頃の沢木さんと、おそらく奥さんらしき女性がいて、二人の間にはこれ以上はないというほどの笑顔を浮かべた小さな男の子がいた。その写真があるだけでこの部屋の空間が埋まっているような気がした。
「俺が女房に惚れたのはさ、誰よりも俺と一緒の空間というものを大切にしてくれたからなんだ。俺の空間に入ってきても気付かないくらい、ずうっと前からそこに入るのが当たり前だと感じた。息子なんて尚更そうだ。俺たち二人の腕の中に息子がいる生活ってのは、未来永劫続くはずだったんだ」
仰向けに寝転んでいた沢木さんが不意に喋り始めた。
「息子は死ぬときは一瞬だった。突発性の腎臓癌てやつはあっという間に息子の身体に巣食っちまった。具合悪がり始めて五時間もしない間に腹がゴム球みたいに膨らんで、病院に着いて集中治療室に入って夜も明けない前に死んじまった。俺は、息子の死体を抱えてただ泣いた。涙が本当に涸れるものだということを知った。
女房は気が狂ってからは長かったが、死ぬときは同じくあっけなかったな。自分で何も出来ない状態だったのにさ、果物ナイフで首筋や胸、腹なんかを何度も刺したらしく血だらけでベットの上で死んでいたよ。病院のほうは監督不行き届きでしたと何度も土下座しに来たけど、俺は責める気もなかったね。女房が自分で選んだことなんだから・・・」
独り言のように話す沢木さんの声には明らかな嗚咽が混じっていた。僕は天井をもう一度見つめた。同じ木目には違いないのに、その歪んだ形は沢木さんの奥さんから流れ出した血溜りをイメージさせた。
「結局俺は何も出来なかったんだよ。女房が死んで、粗末で寂し過ぎた葬式が終わって一年経つか経たないうちに癌になった。前に癌にかかって以来通っていた定期検診で見つかってね。医者に言われたとおり酒も煙草も止めていたのも無駄だったわけだ。でも、正直ほっとしたよ。楽になれるなと思った。だって未来永劫続くはずの空間はいとも簡単に、一瞬で消えちまったんだから。早期の骨肉種だから助かると言われたけど、俺は今度は医者にかかるつもりはなかったね。適当に仕事をしながら、女房の一周忌を迎えた。もちろん息子の命日でもあったわけだが、久しぶりに、三ヶ月ぶりくらいに墓参りにいった。墓の前に立つのは辛過ぎて足が遠くなっていたんだ。
墓の前で、懐から線香を出すと体温のせいか仄かに温かかった。ライターで十本くらいにまとめて火をつけて、置いた。煙がゆっくりと立ち昇っていくのを見ると、なぜだかほっとしたね。しばらく目を瞑ったまま手を合わせた。身体も冷え始めたから帰ろうと目を開けようとした時だ、まだ目を開けていないのに視界が真っ白になった。急いで目を開けたんだが、自分の目が開いてるかどうかもわからなかった。真っ白のまんまずっとしゃがんでいた。いつの間にか寒さも感じず、むしろ懐かしい温もりが込み上げてきた。俺はただその温もりに身を任せていた。どれくらい経ったかわからないが自分が涙を流していることに気が付いた。頬に熱を感じた。そして、目の前には二人の墓があった」
沢木さんはそこまで話すと、鼻を啜った。僕は、自分は空虚な人間だと思った。たかだか二十年そこそこしか生きていない空白に近い空間。
「俺は手術を受けることを決めた。結果、手術は大成功。足には義足を嵌め、今くらいまで歩けるようになった。この手術方法ってのが変わっていてね。逆転術って言うんだが、口で言うより見てもらったほうが早いだろうな」
沢木さんはズボンを脱ぐと、手際よく義足を外した。そこに現れたのは足の模型のような短い足だった。腿のあたりに縫い合わせたような傷痕があり、その部分からいきなり脹脛になっていた。つまり、腿から下は逆向きにくっついているのだった。前面から見ているのにアキレス腱があり、踵があった。
「つまり、この足首が膝の代わりになることで、義足でもわりと滑らかに動けるんだ」
そう言うと、急ぐように義足を嵌め、ズボンをはいた。ベルトの金具が立てる音だけがやけにはっきりと聞こえた。沢木さんの後姿に受けた木偶人形のような印象は、一つにはこの足のせいだったのだ。逆向きにくっついた足のおかげで、沢木さんは前に進むことが出来る。今の沢木さんを形成したのは他の何物でもない、身体に降りかかった全ての事象。
「俺は右足が義足になってから当然仕事はクビになった。さあ、明日からどうしようかと空笑いするしかなかった。手術代の借金もあるしな。何もすることがなく、ただ街をふらついた。失業保険で細々と生活しながら、ひたすら街を歩いた。ポケットの中には煙草を買うためのジャリ銭が入っていて、擦れ合う金属音だけが聞こえて他は何も耳に入ってこなかった。退院してからは酒も煙草もうやり始めた。もう我慢するのが馬鹿馬鹿しかったんだ。
ある日、いつものように街を歩いていると将棋場を見つけた。昔から仕事仲間と何度も指していたから懐かしくなってな、ふらっと立ち寄ったんだ。試しに空いてる場所に座って、どこの誰とも知らねえ奴と指した。そうしたら十分くらいであっという間に詰んじまったんだよ。その日のうちに十人以上と指して、みんな勝っちまった。それからだよ、俺のポケットの中には札が詰め込まれて、賭け将棋漬けの日々が始まったのは。相手の攻め方が見えるときは、決まってこの右足が疼くんだ。痛みとも痒みともつかない感覚。気持ちが落ち着かなくなるような感覚が襲ってきて、いつの間にか相手を詰んでいる」
全てを理解することは絶対に出来そうにない話だった。ただ、僕自身が体感した沢木さんの空気がある。理解するのではなく、そのままを受け入れるしかなかった。
「賭け将棋をしてたのはこの街じゃないんだが、とにかく毎日将棋を指した。金は借金を返し、酒と煙草に幾ら使っても余ったな。ヤクザ絡みの将棋も指したこともあった。ただ、いつも緊迫感みたいなものはなかったな。将棋に負けるという不安もなかったし、勝つ喜びもない。生きているという実感を喚起させるあらゆる感情が消えていた。荒んだ毎日を送るうちに俺も五十になった。そのとき思ったのは自分の故郷、二人の墓があるこの街に帰ってくることだった。金は充分にあったし、少なくとも自分の身体が朽ち果てるくらいまでは間に合いそうだった。そして俺は全てのことから隠居しちまったのさ」
沢木さんに不思議な力を与えたのは墓参りのときに見た白光なのだろうか。それとも、その体を蝕んだ癌なのだろうか。その二つの融合なのかもしれない。全ての話を聞いても、僕には「逆流」の正体が特定できなかった。沢木さんという一人の人間が構築されることの骨組みなのか、枠なのか、それすら判らなかった。悲しくて、情けなくてコップに注がれた酒を一気に喉に流し込んだ。自分の涙を飲んでいるように感じた。これ以上考えることはやめようと思った。少しでも体感しただけで充分だと自分に言い聞かせた。
沢木さんは不意に立ち上がるとラジオのつまみを捻った。ラジオからは昔のフォークソングが流れ出した。沢木さんは幽かな声で口ずさんでいた。その曲は沢木さんの生きてきた時代を精一杯に表そうとしているように聞こえた。ただ、そこに現実感は一片もなかった。沢木さんは曲を口ずさみながら空ろな表情で台所の方を見つめていた。視線を追ってみると、その先には白い薔薇の花束があった。
「墓参り行かなくていいんですか」
沢木さんは一瞬悲しそうな表情を見せ、ゆっくりと首を横に振った。
「女房は白い花が大好きだと言ってた。特に白い薔薇が好きだって。不思議な光を見て以来、墓参りの時には白い薔薇の花束をもって行くことにしたんだ。俺は自分の右足や、心臓や体中のいたるところには薔薇の棘が奥の方まで食い込んでしまっているんじゃないかって時々思うんだよ。歪な鉤状になった二度と抜けない棘が、毎年今日という日を迎える度に一つずつ増えていってるんだ。もしかすると誰の身体にも棘は刺さってるのかもしれない。俺はその痛みに気付いちまったんだろうな」
沢木さんの目からははっきりと涙が零れていた。涙が炬燵蒲団を音もなく濡らしていった。僕も自然と泣いていた。同情だとか、そんな安っぽい涙ではない。僕は自分のために泣いていた。
「女房が自分の身体を何度も刺したのは、苦痛を与える棘を抉り出したかったんじゃないかな。俺自身何度そうしようと思ったかわからない。だけど、生きているうちは絶対に棘は抜けないんだよ。絶対に・・・」
もう声が出ていなかった。男二人がもう真っ暗になった部屋の中で泣いた。
何時間泣いていたかわからないけれどくたくたに疲れている自分がいた。炬燵の火だけが、ただ温かかった。窓から差し込む月明かりの眩しさに気付かされたが、二人とも何時の間にか眠ってしまっていたようだった。沢木さんは眠りつづけていた。だから、もう一度目を瞑った。次に目が覚めれば夜が明けているような気がした。
強烈な冷気を感じて目を覚ますと、窓を開けて外を見ている沢木さんがいた。
「すいません、いつのまにか寝てしまって」
沢木さんは構わないというふうに首を横に振りながら、窓の外を指差した。そこには雪だけが存在していた。昨日の雪は降り続き、全ての上に積もったのだった。
「これからちょっと川原に行く用事があるんだが、付き合ってもらえるかい」
外を見たまま白い息を吐く。沢木さんは台所のバケツから少しだけ萎れた薔薇の花束を取った。薄手のセーターの上に何も羽織らず、玄関の戸を開けた。僕もコートを羽織らずついて行った。雪はまだ誰にも踏まれていなかった。雪の中に靴が埋もれそうになりながら、アパートのあるところよりもさらに下流へと向かった。
「今年で女房と息子を供養してやるのも最後だと思う」
後姿のまま沢木さんは言った。
「俺の身体の中に三度目の癌が出来たみたいでさ、もう何ヶ月と経たないうちにお迎えが来るだろう。なんとなくだけれど、事実、癌だろう」
沢木さんが感知したことなのだからそうなのだろう。僕は唇を噛みながら、黙って沢木さんの話を聞いた。
「これでやっと棘の痛みから解放される。死んで女房や息子に会えるなんてお伽話は信じちゃいない。ただ、少しは楽になれそうなんだ」
身体だけが冷え切ってしまったかのように麻痺している。雪は沢木さんのセーターに積もり、薔薇の上に積もった。
建物がほとんど見えないところまで来ると、川沿いの土手からゆっくりと川原へと降りた。一層冷たい空気が身体を包み、雪は強さを増した。
「名前聞いてもいいかい」
「いえ、止めておきましょう。僕の名前なんて何の意味もありませんから」
本当にそう思った。間もなく終焉を迎えるであろう沢木さんの人生の中に僕の名前が入る空白などないのだ。これから沢木さんは何を思って死を受け入れるのか。感情を使い果たした人間にとっての死とは、どれほどの虚無を意味するのだろう。到底、僕には想像できそうにない。凍てついた身体は心臓の鼓動で粉々に崩れて、散ってしまいそうだった。
「墓まで行かないで女房と息子は怒っているだろうよ」
そう言うと、沢木さんはしゃがみこみ、清廉な流れに手を沈めた。
「冷たいな」
一言そう呟くと手に持っていた花束をそっと川に流した。その薔薇に宿る白さはどんな雪よりも白いと思った。川の澄みきった水の冷気が、薔薇をより一層清浄で潔白なものへと昇華させている。その薔薇を見つめていると身体の奥に鋭い痛みが走った。まるで薔薇の棘が刺さったかのような痛みだった。沢木さんも僕も、薔薇の行方をずっと見つめていた。
「奥さんも息子さんも、きっと怒っていませんよ」
ゆっくりと流れてゆく白い薔薇の花束は、生命の灯を持たぬ蛍の如き雪を伴う。決して逆流に逆らって戻ってなどこない。淡々と、神々しく永訣を告げ、どこまでも流れのまま・・・
あとがき
とりあえずUPしたものの、出来の悪い作品でスイマセン。この作品は古めかしく、悲しい話が書きたくて書きました。だから、俺にしては珍しく性的描写がありません(笑)だから、読みやすいと思います。どうぞ、BBSなどでガンガン批判してくださいね。貴重な意見お待ちしてます。誤字脱字の指摘も大歓迎です。それでは次回作までアディオス!