§5
夏の暑さが日に日に増し、気が付けばマリと連絡が取れなくなってから二ヶ月が過ぎていた。大学も夏季休業、バイトも週に二回しかない。毎日がだらけた日々。今日もその中の一日にしか過ぎない。時計を見ると十時半になっている。物思いに耽ったのなんて久しぶりだった。物思いのような停滞は恐怖を生む。とりあえず煙草を買いに行こうと思った。すぐ近くの自販機まで行く程度のことなのに腰が重い。一昨日、古着屋で買った色の落ちたリーバイスを穿いてポケットに財布を押し込む。前の持ち主もコンチョ付きの財布を使っていたのだろう、鏡を見るとポケットはコンチョがあたる部分が破けていた。僕の財布のコンチョはポケットの破れから顔を出し、鈍く光っている。ぼろぼろのスーパスターの踵を潰したままつっかけてアパートの階段を下りた。一番下まで降りて、やっぱり踵をつぶさずしっかりと履こうと階段の手すりに手をかける。錆が浮いた手すりの感触は、僕を急かせた。
あまり東京らしくも無い町並みが気に入って、大学から少し遠いことも気にせずアパートを選んだ。特に、今下っているゆるく長い坂が気に入っている。名前も知らない坂だけれど、ノスタルジーだけが沈殿しているような少し寂しい坂だ。電信柱が等間隔に並び、家屋とブロック塀は似たような造りだ。だから自分が坂のどの位置にいるかが把握しづらい坂でもある。長いといっても、下りきるのにせいぜい七、八分もあれば充分だ。子供の頃は自転車で近所の坂道を全速力のまま駆け下りるのが楽しくて仕方が無かった。どんどん加速していくのに、両足を上げたり、ハンドルから手を放してみたり。それでも僕は転ばなかった。そして、雨の匂いも感じることが出来た。この坂は僕を不安にさせることもあった。夕暮れにこの長い坂を高校生くらいの男の子と女の子が自転車をゆっくりと押して登ってくる。学校では話しきれなかったたくさんの話題を出来るだけ長く話したくて、出来るだけゆっくりと自転車を押す。その横を通り過ぎて煙草を買いに行く僕がいる。そう、早足で、生き急ぐように坂を下る僕がいた。そんなことが何度もあった。
坂道の傾斜がなくなる頃、自販機が見えてくる。同時に、坂を登ってくるマリの姿が目に入った。なぜ、この坂を登っているのだろう。自然と駆け足になっている自分がいる。目の前に行くまでマリは僕に気がつかなかった。いつも無表情に近い顔は帽子で見えなかった。
「・・・部屋、行くか」
そう声をかけるしかなかった。待っていたようにマリは頷き、黙って後をついてきた。夏の陽射しが二人を貫き、アスファルトの上に二つの影を焼き付ける。ああ、もうそんな季節になっていたのか、と今更のように思う。アパートの前まで来て煙草を買い忘れていたことに気がつく。部屋の鍵を開ける金属音はひどく大きく、反響しているように聞こえた。
マリは部屋に入るなりすぐに蛇口に口をつけながら水を飲んだ。いつもなら邪魔そうにかき上げる長い髪の毛は無かった。おそらく相当短くしたのだろう、帽子からはみ出す髪の毛はわずかしか見えない。麻の白いシャツに、モスグリーンのパンツという格好は涼しげだ。しかし、頭には真っ黒なストローハットがあった。テーブルの前に座っても帽子を脱ごうとせず、俯いたまま。見たことのない皮のバッグから煙草ケースを取り出した。中から細長いメンソールの煙草のパッケージとシルバーのライターをテーブルの上に出す。慣れた手つきで煙草を咥えて火をつける。細長い指と細長い煙草。帽子から見える艶かしい唇へと運ぶ。マリが煙草を吸うということを、少なくとも僕は知らなかった。灰皿を近くへ置いてやり、冷蔵庫からアイスコーヒーを取りに行く。二つのグラスを水で洗い、マリの分もグラスに注いだ。冷凍室から氷を取り出し、ニ、三個その中に落とす。僕は一人でアイスコーヒーを飲みながら窓の外を眺めているしかなかった。アイスコーヒーは何種類かの錠剤を噛み砕いたような味がした。
陽射しが徐々に弱くなり始め、あっという間に薄暗くなると強い雨が降り始めた。うるさいくらいに強い雨は部屋の熱を少しばかり取り去ってゆく。やっぱりスコールは降り始めたのだ。耳に入ってくる音は雨音と、時折聞こえるグラスの中の氷が溶ける音だけ。
「シンヤくんは大きな変化が自己の中で起こる瞬間を自覚したことある?」
氷はもう小さくなっている。俯いたままのマリは奇妙な質問を僕に投げかけた。それに、声が変にかすれている。
「ないかな・・・たぶん」
異様に喉に渇きを覚え、アイスコーヒーを流し込むように飲み干す。
「一週間前、私、堕胎した」
聞き取りづらい声だったのだけれど、一つの単語だけははっきりと聞こえた。
「堕胎」
だって?
「シンヤくんに海にいることをメールした日があったでしょう?あの前の日に妊娠検査薬を使って調べたんだ。トイレに行って尿で検査するんだけど、あれほど馬鹿馬鹿しいこともないの。体がしばらくだるくて、なんでかなって友達に話したら検査薬くれたんだ。ヨウコ、覚えてる?まあ、どっちでもいいんだけど、あの子がくれたの。自分も不安になって調べようと思って買ったんだけれど、買ったその日に生理が来たから結局使わなかったんだって。
私、結果が出る間、不安でもなんでもなかった。だって当たり前じゃない、いつかそうなるって思ってた。もちろん結果は陽性反応。その色の変化を見た瞬間、急に体の中に異物感が発生した。自分が生命を内包しているという事実に嫌悪感を持った。体内で巨大なナメクジが這っているように錯覚した。だから、その日から煙草を吸い始めたんだ。お酒も一杯飲んだし、むやみやたらに夜遊びもした。でも、流れなかった・・・」
ただ、淡々とマリは告白する。目の前にいるのが僕じゃなくても問題ないかのように一方的に話す。窓から見える坂道、傘を差しながら歩く人がとても物寂しい。そっとマリのほうを見ると、完璧な統一性が消え去ってしまったかのようにモザイク越しの映像として見える。リアルを証明するものは首筋のアザだけだ。
「一応病院に行ったんだ。病院の匂いって嫌だね。昔から嫌いだったけど、吐き気がしたもの。きちんとした検査の結果、妊娠三ヶ月。医者もカルテ見ながら流石におめでとうとは言えないらしく、しばらく黙ってた。そしたら、どうしますか?って言われて、思わず笑っちゃった」
マリはその時の微笑みを再現するかのように残酷に微笑む。唇だけが強調されるように視界に入ってきた。口紅は塗られていない。でも、ひどく赤い。
「で、堕胎手術を受けた。これが終わればすっきりすると思いながら手術台に横になった。無感情なまま手術室の照明を見つめると、その中心に目の焦点が合って、同時に心臓の鼓動だけが聞こえてきたの。そのまま光が固定されて、眩暈のような、オーガズムのような感覚が発生して、気が付くと病室だった。体が重くて、私の短い人生の中で一番気分が悪かった。それでも止まることは出来なかった。だって、私にはまだしなければならないことがあったから。ベッドの枕元にあるブザーを押して看護婦に来てもらったんだ。担当の医者を呼んでもらって、約束通り持ってこさせた。生命体になるはずだった塊を」
何のために?そう聞きたくても声が出なかった。喉が潰れてしまったかのように空気が抜ける音だけがする。僕は窓からわざとグラスを落とす。砕ける音と、「あ」というマリの声。ちょうど人は通っておらず、音は雨の中に吸い込まれ、消えた。
再び禁じられた告白が開始される。
「手術前に頼んでおいたの。もちろん医者は断った。けど馬鹿だから、診察室でフェラチオをしてやって、手術後に一度セックスする約束を交換条件にしたらOK。今までで一番不味い精子だった。
鉄のトレイの上に白いガーゼみたいな布があって、医者は偶像へお供え物を奉げるように、そのトレイを私に差し出した。個室の病室はもう夕暮れの光で満たされていて、その光が逆光になって医者の顔はあまり見えなかった。ただ立ったまま、私が布を取るのを待っていた。布に指をかけると静電気が走ったのかと思うほど指先が痛んだ。ゆっくりと布を上へ引き上げると、どす黒く、同時に真っ赤な塊があった。よく見ようと顔を近づけるとその塊がナメクジに姿を変えて動き出したの。そして、私は気を失ってしまった。その形状を確認して、目や脳裏にしっかりと焼き付ける前に、変な幻覚を見て気絶するなんて大失敗。それが動物のレバーや臓物のようなものなのか、見たこともない新しい物体なのか、私は結局はっきりと見ることは出来なかった。
病室で再び目を覚ますと、もうすっかり夜になっていた。目に違和感があったから指を当ててみると、冷たい液体があって驚いた。ああ、私泣いたんだ、って」
僕はマリを「売女!淫売!人でなし!」と罵ることも出来たけれど、そうしようとは思わなかった。マリが抱えている苦諦の形が見えたからだ。マリの唇が妖艶に医者のペニスを愛撫する様を、トレイにのせられた血の滴る牛肉のようなものを、マリの頬に存在したであろう涙の痕を想像した。そういえば、僕はマリが泣いたのを見たことがない。だから、涙の痕はぼやけてイメージされた。そして、日の落ちた病室の闇の中に、血と体液とに包まれた異形の物体が蠢いている映像が浮かび上がった。
「一睡もしないまま朝が来て、医者が回診に来たの。もちろん、もう一度見せてって言った。もう処分したし、やはり生命への冒涜に過ぎないから無理だって医者は言うんだよ。もう何も言えなくってさ、早々に病院を出たんだ。
その日から何も食べてない。だって吐いちゃうんだもの。それにねえ、痛み感じないんだ。試しに太腿を針で刺してみたり、手の甲に煙草押し付けてみたりもしたけど、ちっとも・・・たぶん、もうセックスしても感じないんだろうなあ。無感覚なのってね、結構怖いんだよ」
手の甲には火傷の痕があった。瘡蓋状になった痕から、生気が抜け出しているかのようだ。雨は次第に強くなる。雨雲で薄暗くなったのと、まだ被ったままの黒いストローハットのせいで表情がよく見えない。でも、怖いと言いながらマリの唇の端は上がっている。そこには微笑がある。
「遠い海辺の街を探さなきゃ・・・」
黙っていたマリが独り言を呟く。海辺の街、そこに何があるというのだろう。マリの告白にどんな意味があるのだろう。それ以前にマリという存在は本当に現実の存在なのだろうか。
§6
無言の中には降り続く雨によってのみ音が付加される。長い沈黙は僕をひどく疲れさせた。薄暗い部屋の中に沈黙が沈殿していく。マリの一連の行為は、背徳だとか神への冒涜だとかそんな高尚なものではない。「絶対悪」なんてものでもない。単純に悲しい行為だ。マリは闇から闇へと移動する異形の物体を探し求めている。
「私は取り返しのつかない失敗をした。だからもうセックスはしない。勘違いしないでね、罪悪感からとかじゃないよ。私の中でセックスというものが意味性を失った。ただ、それだけ」
マリが沈黙を破った。意味性なんて言葉をマリの口から聞くとひどく落ち行かない気分になる。
「もともと子孫繁栄の目的ではない、快楽のためのセックスにたいした意味なんて無いだろう?」
僕は初めて声を出した。着色された液体が垂れ流され、カーペットに染み込んでいくのを黙って見ているのに等しい行為を続けたくなかった。
「だけど、結果として私の子宮に生命体が発生した。つまり私のセックスの終着点はそこだったわけ」
「産みたかったということかい?責任を取って欲しいと?」
「とんでもない、シンヤくんはぜんぜん判ってないわ。父親があなたって保障も無いし、そんな他者に依存した問題じゃない。本来わたしは血にまみれた肉塊を見るはずだったのよ。でもどこかで、どの時点でなのかわからないけれどバランスが崩れてしまった。起こらなければならないことが起こらなかったことで全てが変わってしまった。その変化を混乱として受け入れるのか、それとも変革として捉えるのか。そういうことよ。」
マリは先輩と同じことを言っている。僕は何も言葉が見つからなかった。
「変革の結果、二つのことが決定した。一つは、私の中でセックスの意味性が消滅したこと。もう一つは、わたしが海辺の町で暮らすこと」
「学校、やめるのか?」
反射的に無意味な問いかけをする。マリが何を言っているのか判らなかった。海辺の街にいったい何があるというのだろう。そこに肉塊と等価の何かがあるのだろうか。マリの言葉すべてが非現実的で、マリそのものも非現実に近づいているような気がする。うつむいていたマリが急に大声で笑い始めた。とても無機質で、響く声。
「・・・本当に判ってないね。そんな次元の問題じゃないってば。もう一度言うよ、単純に私が遠くにある小さな海辺の街で暮らすことが決定づけられたの」
不可解で非現実的なこと、無意味で虚無的なもの、そういったものと衝動とが入り混じるときにバランスが失われる。そして、その非バランスによって変化が生じる。そういったことは身近な空間で起きうることなのだ。頭で理解してもマリの言葉は無機質なまま響く。
雨が急に弱くなったようだった。マリは雨脚が気になる様だ。窓の方へ顔を向けているので首筋が見え、思わずアザに目が行ってしまう。そこには違和感があった。アザの色が薄くなっているように見える。それ以前に小さくなっているようにさえ見えた。
「アザ、変じゃないか?」
本当は名前を呼んで、目の前に居る女がマリであることを確認したかった。実際声に出そうとするとmaの音とriの音を続けて発音することが出来そうに無い。僕の中で、目の前の女がマリである保障が消滅していた。
「別に変わりないよ」
「いつまで帽子被っているんだ、取ったらどうだい」
僕はすぐにでも証明が欲しかった。坂道から部屋に着いてから今まで、僕はマリを首筋のアザでだけ認識していた。一度も表情を含めた顔全体を見ていない。なぜ異質なはずの黒いストローハットになんの疑問も持たなかったのだろうか。悔やんでも悔やみきれなかった。先輩やマリらしき女の言うように、全てはもう元に戻らないように損なわれてしまったのかもしれない。
「髪の毛がぐちゃぐちゃだから取りたくないの」
窓の外を向いたまま、言葉を宙に放り出すように答える。やはりもう遅かった。もう僕にはこの女がマリであることを確認することは不可能になった。雨が上がれば二度とマリとも、マリらしき女にも会うことは出来なくなるだろう。雨は必ず止む。避けられぬ事象以外の何ものでもない。
自分の中のマリと言う存在を考えてみる。いったい僕にとってどのような存在だったか。マリとの会話、セックス、会話、セックス。マリの与えてくれたもの。先輩に偶然会ったあの日、僕がメールしようとした言葉。マリが僕の前から完全に消え去るという事実が僕をいったいどう変えるのだろう。しかし、そんな思考は全て無駄なような気がする。損なわれてゆくものに対する感傷でしかない。つまりは固執なのだ。僕は同じ過ちをくり返した。変化を変革として捉えることが出来なかった。マリが虚無の中で与えてくれたものを、誤解したまま無駄に浪費し、日常に身を委ねてしまった。
「ぼんやり何を考えているのか判らないけど、顔色悪いんじゃない?シンヤくんとのセックスは楽しかったし、気持ちよかったよ。所詮は記号なのかもしれないけど、この四ヶ月という時間は充実していた。あまり深く考えちゃだめ。ある日現れた女が、またある日消えるだけなんだから」
そう言うとマリらしき女は不意に立ち上がった。すぐに背を向けるようにして、窓から身を乗り出す。
「雨が上がった・・・」
ついに雨は上がり、マリ(マリでもそうでなくても、もうどちらでも良かった)は去って行く。雨が奪い去ったのは地表の熱だけではない。ならば、僕を潤してくれるのだろうか?マリは何も言わないまま玄関で皮のサンダルを履く。
「もうたぶん逢うことはないと思う。万が一見かけても声をかけちゃだめだよ。おそらくその女は『マリ』じゃない」
§7
ドアを開けると、いつのまにか日が照っていた。マリは眩しそうに、より深く帽子を被りなおす。鉄の階段も、道路のアスファルトも雨に濡れたままだ。
「途中まで送るよ」
「・・・・・・うん」
当たり前だけれど坂道も雨で濡れていた。この坂道が作り出す風景が雨を受け入れたのだ。太陽は余りにも強い日差しを全ての物体に向けて放射している。一緒に並んで歩くのは不思議な気分だ。こんなに身長が小さかったのかとも思った。坂道のアスファルトは太陽の熱によって、雨をスチームのように蒸気へと変える。ぬるくて湿った気体が、身体に絡まりついてゆく。マリの歩調は一定でゆっくりとしている。
マリは実際に妊娠なんてしていなかったのではないかと思う。一つの作り話だったのではないだろうか。そうであっても結末は変わらない。肉塊があろうとなかろうと、それと同質のものをマリは失った。おそらく僕も同様に失っている。ただ、マリと僕が決定的に違うのは、僕はそのことに今気が付いたのだ。ゆるやかな坂を雨水は急いで下へ流れてゆく。水の流れに反射する光が、時折僕の目に飛び込む。この坂道をゆっくりと下るのは初めてだった。そして、僕らは坂の終点へと到着した。
「ここまででいいよ」
振り向いたマリが棒読みの台詞のようにそう言うと、帽子を脱いだ。そこにいるのは紛れもなくマリだ。僕はマリの顔を鮮明に思い出した。かなり短く切った髪形だけれど、とても似合っている。だけど、首筋にはアザが見えない。もしかすると最初からアザなんてなかったのかもしれない。
「私は言葉足らずだから、シンヤ君を振り回したかもしれない。ごめんなさい」
「最後に一つだけ聞いていいか。もし、マリが肉塊を見ることが出来ていたら、いったいどうなっていたんだ?」
マリは悲しみの表情を浮かべ、アスファルトを見つめるように下を向く。卑怯な質問だとわかっている。だけど聞かずにはいれなかった。右手を首筋に当てて、擦りながら頭をニ、三度振る。
「私がいるのは(そこにいるから)、それだけ。(もし)なんて言葉はいらないし、私がどうなっていたかなんて知りたくない。私はいつ死ぬかもわからない。だけど、たぶん海辺の街で死ぬ。来る日も来る日も海を眺め、潮風を浴びる。砂浜では貝殻や花火の跡、波に打ち上げられた海藻を見る。春夏秋冬全ての海を感じて過ごし、年老いてゆく。誰かと共有することではない。そして、ただ、一つだけわかるのはシンヤくんが涙を流さなくても済んだんじゃないかってこと」
涙?
僕は泣いていた。雨は上がったのに、ただ涙が溢れてきた。そっと僕の涙を指で拭うマリも泣いていた。
「私にも印として求めるものがあるように、シンヤくんにも求めなければいけない印があるはず。それはなんのためにあるのかなんて誰も教えてくれない。それでも見つけなければいけない。目に見えるものは印じゃない。だから首筋のアザは、印じゃない。自分の中に印がある。大丈夫、きっと見つかるから・・・」
涙が止まらなかった。涙目のまま首筋を見ると、滲んではいるけれど、そこには茶色のアザがある。マリはもう一度僕の涙を指で拭うと、帽子を被り直した。
「さようなら」
そう言ってマリは坂道をゆっくりと下っていった。僕は涙で歪んだままの視界の中に、背中を見つめ続ける。何がリアルかわからないけれど、この坂道と、アザと、マリの後ろ姿だけは現実だとわかった。朝が来て、夜が来て、また朝が来る。当たり前だけれど、誰もそのことを見つめなおしたりしない。でも僕は見つめなおそう。僕は「抗えない何か」に怯えていた。それが何なのかもわからないのに、抗ってもみないで逃げていた。抗ってみなければ何も見つからない。
「ありがとう」
と呟き、僕は振り向くと一気に坂を走って登り始めた。下り坂は立ち止まって振り返れば上り坂になる。とにかく息が切れても走った。足が痙攣してきても走った。泣きながら全力で走るのは気持ちが良かった。丁度坂を登りきったとき、不意に残り雨が降り始める。心臓がうるさいくらいに響く。太陽は照ったままで、降り続ける雨はまぶしい光の塊として全てに向かって降り注いでいる。僕は空を仰ぎながら全身で受け止めた。雨はあっという間に止み、同時に懐かしい匂いがした。まだ僕が空白なんて知らない頃、大好きだった雨の匂い。今日だけかもしれないけれど、再び感じることが出来た雨上がりの匂い。
そうだ、明日八王子へ行こう。
そして今度こそパスタを食べよう。
ミートソースでも、ナスとトマトのパスタでも。